二百二十四 龍年の余興(下巻274頁)
大正五(1916)年は丙辰(注・ひのえたつ)という龍年であった。龍年には王政復古(注・明治維新)などもあったように、昔から天下多事の年回りだと言われているが、この龍年には欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余熱がわが国の経済界にまで及んで、ほうぼうで成金(注・なりきん)のつぼみがほころびかけるという形勢が見られたりと、何やらいい気分が感じられるころだった。
そのような新年そうそうに、私は小田原古稀庵に山県含雪公爵を訪問した。公爵は、金地の色紙にしたためられた次のような一首を見せてくださった。
大正丙辰の元旦に雨降りければ
雨雲の晴るる浪間にあらはれて 空ゆく龍の年立ちにけり
そして、公爵は私に、新年の作は、と問われたので、その朝途中で考えた次のような腰折(注・自作を謙遜していう)を御覧にいれた。
天翔る心なき身は朝寝して のどかに迎ふ龍の年かな
すると侯爵は一笑して、「無精な龍先生じゃのう」と評された。
さてその翌日、下條桂谷翁を番町邸にも訪問したが、翁は「新年の試筆に今朝こんなものを書いたよ」といって牧谿風の雲中龍を見せてくださった。私は、割愛(注・譲ってもらうこと。この場合は有償であろう)を乞い、そのまま自宅に持ち帰ったのであるが、この時翁は、次のような話をされた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「拙者の龍は、米沢藩御抱画師で、拙者が青年時代の恩師である目賀田雲川先生の画風である。先生は平常、人に教えて、龍の絵は、鼻と目と角と、一直線に並行するのが、宋元大家の画風なれば、必ずこの法則に背くべからず、と言われた。
しかるに近来、日本の画家は、往々、この法則を無視し、橋本雅邦のごときも、いつぞや角を逆立てて、鼻と目を並行せざる龍を描いたから、画龍の古法は、かくかくなりと注意したるに、雅邦は、さる法則ありしか、とて、初めて心づいたようすであった。けだし古人が、多年の経験において、斯くするのが、龍の神霊を示すべき描法なるを発明したためであろう。
また龍の爪は、普通三本に描くようだが、宋人陳所翁は自ら、一機軸を出して、これを四本に描いて居る。もっとも、天子の黄袍(注・黄色い上着)その他、御物の模様には、五爪の龍とて、これを五本にする慣例があるが、雲川先生は、陳所翁を学んで、常に四爪の龍を描いたから、拙者もまた、その例に倣って居る。また龍に関する画題は様々あるが、黄帝若しくは観音が龍に乗るの図、馬師皇(注・ばしこう。黄帝のころの馬の名医)が龍を癒すの図などが、その最も著名なるものである。
ところが最近の一奇談は、旧臘(注・きゅうろう。去年の十二月の意)、孫女(注・まごむすめ)が咽喉に鯛の骨を立てて、いかにしても取れないので、急ぎ咽喉科医師坂口吉之進氏を招ぎたるに、氏は早速かけつけて、なんの苦もなくその骨を抜き取られたので、厚くその好意に謝したるに、坂口氏は、手をふりて、先生、その御礼にはおよびませんから、何か一幅画いてください、と言わるるので、さらば御需め(注・お求め)に応ずべしとて、馬師皇が龍を癒すの図をしたためたのはほかでもない。列仙伝に『馬師皇なる者は、黄帝の時の馬医なり、後龍あり下向、耳を垂れ口を張る。師皇曰く此龍病あり、我が能く之を癒すを知ると、乃ち其唇下に針し、甘草湯を飲ましむ。龍負ふて而して去る』とあり、馬師皇が龍に針して、その病を癒したるを、坂口氏が孫女の咽喉の刺を抜きたるに比して、此画題を選みたるに、本年が、恰も龍年に当たっているので、われながら当意即妙と思って居る。」
といって、桂谷翁は、まず得意の一笑をもらされたものだ。さらに次のような話もされた。
「明治四十二年の事なり、先帝陛下より、龍の絵を描いて差し出すよう御沙汰があったので、丹精をこめてこれを揮毫し居る折柄、旧藩主上杉茂憲老伯が来訪して之を見るや、我れにも同図を描いてくれよと懇望せられたれば、二つ返事で応諾しながら、事に紛れて、これを果たさず、旧臘二十四日にいたり、来年は龍年なれば、もはや猶予すべきにあらずと、にわかに思い立ってこれを描き、約束後七年ぶりで上杉邸に持参すれば、老伯は大いに喜んで、硯蓋の上に載せた紙包みと、ほかに目録を賜ったから、その紙包みをひらいてみると、これなん、上杉家の定紋、竹に雀を染め出したる黒羽二重五つ紋付き羽織で、老伯の言葉に、『君が龍の絵を持参したらば与えんとて、七年前よりこれを仕立てて待っていたのが、今日役立って、誠に重畳のいたりである』とありければ、多年疎慢の罪を重ねたるが、いまさら思えばそら恐ろしく、このときばかりは、拙者も穴にも入りたき心地がした云々。」
このほか、もうひとつの龍物語は、平岡吟舟翁が辰年生まれで、大正五(1916)年はまさに還暦の年であったが、昔から、辰年の還暦の人が、新年一月の辰の日に描く龍が火伏せ(注・火事よけ)の呪いになるということで、翁に龍の絵を所望する人が続出して、どんどん数が多くなってしまった。
そこで翁は、たちまちのうちに一計を案じ、まず、大刷毛で、塗抹した黒雲の中に、金銀の玉をつかんだ龍の爪を描くことにし、新年八日の辰の日に山王山下の自邸で画龍会を催すことに決定した。そして、みるみるうちに百幅あまりを描きまくり、たった一日で埒をあけた(注・片をつけた)とは、いかにも奇想天外であったが、表具は筆者持ちとなったので、洛陽の紙価はいざ知らず、都下の表具料は、さぞかし暴騰したことだろう。
龍年の余興、あらあらかくのごとく、めでたく候、かしこ。
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