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二百二十三  鷹峰光悦会発端(下巻270頁)

 京都府愛宕郡鷹峯に光悦寺という日蓮宗の寺院がある。境内には、本阿弥光悦、光瑳(注・光悦の養子)、光甫(注・
光瑳の子。空中斎)、光伝(注・光甫の子)らの墳墓がある。この辺一帯は京都から丹波に通じる街道にあたり、往時、光悦が徳川家康から広大な地面を賜り、一族多勢とともに、いわゆる光悦町を構成した場所である。

 寺院の庭先から東南をのぞむと、前面に坊主頭のような鷲ヶ峰が兀然(注・こつぜん。高く突き出ているさま)とそびえ、そのふもとを紙屋川が流れ、松樹竹林が連接し、左手には遠く叡山が控えている。
 その中間に横たわる船岡山越しに、蒲団を着て寝ている姿の東山一帯を展望する光景はいかにも明媚温雅で、洛北の名勝たるにそむかない。
 しかしながら、維新以後、訪ねる者も少なく、明治の晩年にアメリカ、デトロイトのフリーア(原文「フリヤー」)氏が、光悦を景慕してこの寺を訪ね、さかんにその絶景を賞讃するとともに、光悦の偉大な人格や業績を宣伝したために、京阪間にもようやくこの寺に注目する者が現れてきたのである。
 中でも、京都の道具商である土橋無声嘉兵衛は、当寺にほど近い玄琢村の生まれなので、光悦寺興隆のために大いに奔走し、同志を糾合して、まず光悦会を組織した。そして光悦好みの新茶室を境内に新築し、大虚庵と名づけ、大正四(1915)年十一月下旬に、その開庵披露をかねて光悦の遺作品の展覧会を本寺で催したのが、実に光悦会の発端である。
 以来、光悦会は、毎年光悦の祥月命日である十一月十三日に鷹峯で開かれている。最初に益田鈍翁が会長になり、その後、大谷尊由師が引き継ぎ、京阪、名古屋、東京の諸名家が、年々、濃薄茶席を受け持つことになった。そのため当会は、今や京都の年中行事の中で最も著名なものになったのである。
 私は大虚庵開きの茶会に出席して、はじめてこの地の光景に接した。そしてこれを愛玩するあまり、まず、光悦がいかにしてこの地に土着したかについて研究したものだ。 
 元和元(1615)年、彼が五十八歳の時、徳川家康が大阪の陣を終え京都にやってきた。そのとき所司代の板倉伊賀守(注・板倉勝重)に、「ちかごろ本阿弥光悦は何をしているのか」と質問したので、伊賀守は、「彼は異風者(注・変わり者)にて、京都に居あき申候(注・京都に住むことに飽きたと申しております)、辺土(注・へんぴな場所)に住居仕り度き由申居候」と言上した。
 これをきいた家康は、「近江丹波などより、京都への道に当り(注・近江、丹波から京都に至る道筋に)、用心悪く(注・不用心で)、辻斬、追剥などの出没する所あるべし、左様の所を広々と彼に取らせ候へ(注・そのような治安の悪い場所に、広い土地を与えよ)と言い渡した。
 そこで光悦は、鷹峯のふもとに、東西二百間余り、南北七町(注・東西約360メートル、南北約760メートル)の原地の清水が流れ出ているところを拝領し、一族の中で手に職のある者を呼び集めて、それぞれの住居を作った。
 また母の妙秀の菩提所として妙秀寺を建立するなどして、今日における、いわゆる文化村を創立したので、人呼んでこれを光悦村と称するにいたったのである。
 光悦は当時、近衛
三藐院注・さんみゃくいん。原文では「院」と表記。近衛信尹のぶただ)、松花堂昭乗とともに、三筆(注・寛永の三筆)と称せられたほどの能書家で、本業の刀剣鑑定のかたわら各種の工芸に従事していた。また茶事を好み、陶器を作り、謡曲を謡うなど、その芸術や思想がいかに秀抜卓絶していたかは、遺作の品によって容易に推察することができる。彼の門人であった灰屋紹益(注・はいやしょうえき。原文では「浄益」と表記)の「にぎはひ草」(原文では「賑ひ草」と表記。紹益の随筆)に、次のように書いてある。


「我身をかろくもてなして、一類眷族に、奢りをしりぞけんことを思ひ、住宅麁相(注・粗末)に、小さきを好みて、一所に年経て住めることもなく、茶の湯に深くすきたりければ、二畳三畳敷、いづれの宅にもかこひて、自から茶をたて、生涯の慰みとす、利休在世に近かりければにや、形なりを好み作りて、焼かせたる茶碗等、今世にかつ残りたるも、一ふりあるものとぞ云ふめる。都の乾に当りて、鷹峯と云う山あり、其麓を光悦に給はりてけり、我住所として一宇を立て、茶たて所などしつらひ、都には未だ知らざる初雪の朝は、心おもしろければ、寒さを忘れ、自から水くみ、釜仕掛け、程なく煮え音づるるも、いとど淋しく、都の方打ながめ、訪ひくる人もがなと、松の梢の雪は朝の風に吹き払ひて、木の下かげに暫し残るをおしむ。」

 光悦の茶風は千宗旦の侘び数寄に通じ、独楽閑寂の趣があった。私は、光悦の人となりとともに、この寺の風景を鍾愛(注・たいそう好き好む)したので、大正五(1916)年、境内東南方の崖地に臨む、鷲ヶ峰から東山方面をひと目に見渡す平地に、五畳敷一間床、書院付きの茅葺き一棟を寄進し、庵名は無造作に、本阿弥庵と名づけた。土間を広々と取り、天井板の竿縁がわりに朱塗りの細筋を引き渡すなど、いくぶん光悦風の意匠を取り入れた。露地には、片桐石州が所持したと言い伝えられる小形のつくばいと石灯籠を据え付け、これを毎年催す光悦会のために充てることにしたのである。
 その後大阪の八木与三郎氏が、騎牛庵という古茶室を寄進したため、光悦寺には三つの庵室がうち揃い、年々、関西の風雅をこの地に集める霊場となったのである。
 これは畢竟(注・ひっきょう。つまるところ)、光悦の遺徳のなせるわざではあるが、土橋無声らの尽力もまた、非常に大きなものがあったのであるから、光悦会の発端について記し、後の人びとの知るよすがにしておきたい。


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