二百二十二
木瓜唐花(下巻267頁)
大正四(1915)年の御即位御大典の際、私は石黒況翁(注・石黒忠悳)、下條桂谷の両翁からおもしろい故実異聞を耳にした。まずは況翁の談話を紹介しよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)
「御大典の節、二条城中舞楽殿に引き廻されたる、だんだら幕の木瓜唐花は、織田家の紋所と同様であるが、織田信長は、つとに王室の式微(注・非常な衰え)を慨し、上洛の際、物資を献じて、朝廷の大礼を事故なく挙行せしめられたその時、舞楽殿に織田家の紋所幕を引き廻したので、かかる場合にこれを用ゆることになったという。
しかるに、他の一説には、信長は当時の記念として、かの紋所を用い始めたので、木瓜唐花は、古来、朝廷の御儀式に使用せられたものだ、ともいうことである。
以上二説の当否はいずれにしても、信長が天朝尊崇の志篤く、王室式微の時に当たりて、その古典旧式を復興したのは、蔽うべからざる事実であるから、今度の御大典の盛時を承知したならば、定めて地下で欣躍することだろうと思い、自分は、御大典の翌日、紫野大徳寺の総見院を訪い、信長の木像を礼拝し、また、その墓碑に香花を手向けて、古英雄の遺烈を追慕したが、総見院は、今や聚光院の預かり寺となって、境内荒廃、人影を見ず、誠に物淋しき光景であった。
それより聚光院に立ち寄って、利休の墓に参詣すると、早朝より早や墓参せし者があったとみえ、香煙縷々として、新鮮の花さえ手向けられてあったから、当年天下を震撼した信長の墓畔よりも、かえって微々たる一茶博士の方が、賑やかなるかと、深く自ら感慨した次第である。」
大江定基(下巻268頁)
下條桂谷翁は、大正四(1915)年四月初旬、宮中大饗宴の余興として、「石橋」(注・しゃっきょう)の御能を拝見したところが、「これは大江定基といわれし寂昭法師にて候、我れ入唐渡天し、初めて彼方此方をおがみ廻り、只今清凉山に参り候」という名乗りのところに至り、二十五、六年前、明治天皇陛下の御沙汰を蒙り、この大江定基、寂昭法師の履歴を調べた時、様々に苦心したにもかかわらず充分にその事蹟を確かめることができなかったのに、当夜、はからずもこの名乗りを聞いて当年のことに思いいたり、七十余歳となって謡曲から学問のよい資料を得たという。その談話の大要は次のようなものだった。
「二十五、六年前、自分はある日、明治天皇陛下より、書画鑑定を仰せつけられて参内せしに、御廊下にて、ふと、杉(注・杉孫七郎)子爵に邂逅した。ところで子爵は、自分の顔を見るや、『よきところにて出会いにり(注・けり、か?)、実はただいま、谷文晁筆西園雅集図一幅を御買い上げにならんとするところだが、陛下より、図中に一人の僧侶あるは何人なりや』との御尋ねあり、ハタと当惑せし次第なるが、『貴下には定めて御承知ならん』と言わるるので、『自分も深くは心得ぬが、かの僧侶は大江定基の後身で、宋時代、かの国に渡り、高宗皇帝より円通大師の称号を賜った者だ』と答えたところが、杉子(注・子爵)は大いに悦んで、さらばその旨、徳大寺侍従長に説明してもらいたいと言うので、すぐに侍従長に面会して、右文晁幅を一覧するに、如何様、非凡の出来なれば、まず西園雅集なる画題について説明をなし、宋の米芾(注・べいふつ、北宋の文化人)、字は元章とて、当時、書画風流をもって天下に鳴りたる大文人が西園雅集なるものを催し、王義之の蘭亭修禊(注・らんていしゅうけつ)に倣って天下の名流を会合したその中に、日本人たる円通大師が加わって居るのは、当時、大師の名声がいかに彼の国に響き渡っていたかを知るに足る。されば、日本人より見れば、西園雅集中にこの一僧形あるのは、実にこの図の眼目というべきものであると述べたところが、徳大寺侍従長は委細聞き終わりて、御前に罷り出で、下條の説明はかくかくと言上したので、陛下にも至極御満足に思召され、なおとくと円通大師の履歴を調べて、申し出でよとの御沙汰があったので、仰せ畏みて早速取り調べたが、定かにそれと明記したる者を見ず、当惑のあまり、おりから上京した京都の富岡鉄斎翁に問えば、翁はすぐにこれに答えて、『大江定基は弱年の頃、三河国に在任中、長者の娘と契りしに、娘がほどなく身まかったので、纏綿(注・てんめん。深い愛情)の情止み難く、二十余日間、屍体の傍に座して、これを葬むらんともせぬので、あまりのこととて、僧侶が来たって、諸行無常の理を説いたところが、定基大いに悟るところあり、差添(注・脇差)を抜いて、我れと我が髻(注・もとどり)を切って仏門に入り、七十二歳の時、入宋して(注・史実ではもっと若いときのようだ)、ついに帰朝せず、宋の天子より円通大師の称号を賜り、八十余歳で彼の地に遷化したということである』と物語られたから、自分はこのことを聞くや、鬼の首でも取ったように悦んで、これを徳大寺侍従長の手許まで報告したが、この報告は、明治天皇陛下でも叡覧の上、右文晁幅に添え置かれたと承る。しかるに、今度宮中御能にて、図らず定基の事蹟を見当たり、明治大帝御在世中のありしことどもを回想して、いまさら今昔の感に堪えざる次第である云々。」
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