二百二十 水戸学著述の由来(下)(下巻260頁)(上へもどる、中へもどる)
私は前項において、水戸義公(注・徳川光圀)が伯夷伝を読んで感得した、兄弟推譲の第一義を説明した。そこで今回は、「君、君たらずといえども、臣、臣たらずんばあらず」という、第二義について述べようと思う。
義公が、伯夷伝から感得した第二義は、伯夷、叔斉が、周の武王が殷の紂を討つのをいさめて、「以レ臣弑レ君可謂レ仁乎(注・臣下の身で君主を殺すのが、仁と言えるのか)」と曰い、武王が殷の乱を平らげてのち、天下周を宗とするにあたり、「義不レ食2周粟1(注・義として、周の粟を食べない)」といって、首陽山に隠れたという行実である。
古来、シナにおいては、禅譲放伐(注・中国古代に唱えだされた王朝交代の二つの型。中国の君主は、天帝の命によってその地位にあるものと信じられていた。禅譲は一王朝一代で、前の王が天命の下りた天下の最有徳者に平和的に王位を譲るという理想型。放伐は、世襲王朝の失徳の王を天下の有徳者が武力で討って代る革命。漢以後の王朝革命では、形式的に禅譲に似せるものが少くなかった。[ブリタニカ国際大百科事典小項目事典より]。高橋は、ここでは、放伐の意味で使用していると思われる。)が常道とされた。君子が君子らしくなければ、臣下がそれに取ってかわることも少なくなかったのである。
孟子なども、「聞レ誅2一夫紂1矣、未レ聞レ弑レ君也(注・紂(=殷の王)という一人の男を武王が誅殺したとは聞くが、臣下が君主を殺したとは聞いていない)」と明言したほどであるのは、その建国の根本とする義が、すでにこのようなところにあったからである。
伯夷、叔斉は、君臣の大義というものは決してこのようなものであってはならないということで、武王の馬を叩いて、その非をいさめたのである。そして、孔子は後世になってこれを「仁を求めて仁を得たり」と称賛したのである。
古来、禅譲放伐(注・前述のとおり、放伐の意味であると思われる)を常習としてきたシナにおいても、すでにこのような義人がおり、聖人である孔子もその義を激賞したのである。
わが日本国においては、国初以来、万世一系の天子を戴いており、革命の事例を求めることはできないのはもちろんのこと、君臣の大義は明確に万世にわたって不変なはずなのに、中世以降、禍乱(注・災いや戦乱)が相次ぎ、王政ははなはだしく衰え(原文「王室式微」)、政権は武門(注・武家)に移った。
天下の人民は、将軍がいることを知ってはいても、天子がいることを知らない。北条義時の不臣行為、足利尊氏の奸猾行為があっても、世の中にはそれに気づく者がないというありさまなのであった。
さいわいに、織田、豊臣の二氏が王室に関心を向け、徳川氏もその先鞭に従い、天朝尊崇の礼を失わなかったが、御水尾天皇のように、関東の情勢に心穏やかでなく幕府の措置に憤りを感じる志のある朝廷人もいたのである。しかし、俗儒曲学の者たちは、その仕えている幕府に媚びて、ややもすると名分を誤るおそれが出てきた。
武門の驕慢が極点に達し、日本の建国の本義にたがうことがあったならば、徳川氏が長く不臣の汚名をかぶることになってしまうということが、義公のおおいに憂慮するところとなった。日本国民はみな、伯夷、叔斉の心をもって心とし、たとえ君が君らしくなくとも、臣は臣らしくなくてはならないという大義を、みずからのつとめとした。この大義に当たって、「親を滅するも、猶ほ辞さず(注・親をつぶすことも辞さない)」としたゆえんがここにある。
公が、元禄三(1690)年十月に隠居して、翌月に水戸に赴くことになったとき、当主の粛公(注・水戸徳川家三代藩主、徳川綱條つなえだ)に授けられた留別の詩の結句は、次のようなものであった。
古謂君雖以不君 臣不可不臣
これは、公が粛公に対して、家学の根本議を示したものである。公は、造次顛沛(注・ぞうじてんぱい。とっさの場合、危難の迫った場合)でも、このことを忘れなかったようだ。
それゆえ、公はいつも、伯夷、叔斉を敬慕してやまず、かつて、小石川後楽園に得仁堂を作ったとき、そのふたりの木像を安置し、また水戸領内に隠棲することを決めたときに、久慈郡西山にやってきて、その地名を聞き、伯夷と叔斉が「登2彼西山1兮采2其薇(注・ぜんまい)1矣」の遺意を得たりとして、この場所を選定し、自らも西山と号したことなどは、すべてみな、ふたりへの欽仰思慕の一端と見るべきなのである。
さて最後に、第三義「後人観感の為、修史の必要欠くべからざる事」についても述べてみよう。
大日本史の序文に、「載籍あらずんば、虞夏の分、得て見る可らず」とある。義公が十八歳のとき伯夷伝を読んで、決然としてその高義を慕い、兄弟推譲の礼を知り、また君臣の大義名分をつまびらかにして、みずから矜式(注・きょうしき。謹んで手本にすること)するところを得ることができたのは、すべてみな、これらを記載する書籍があったためであった。
だがわが日本においては、六国史(注・奈良から平安時代の修史事業で完成した歴史書。『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)以降、史実を著したものが非常に少なく、稗官野乗(注・民間の歴史書)では毀誉褒貶が一定せず、事実を誤り虚を伝えている。名分についても順逆をわきまえず、ひどいものでは天皇御謀反であるとか親王を京師(注・けいし。都)に流す、などと言う。当時の林家の博学をもってしても、わが国の朝廷の始祖を呉の太伯の末裔であるとし、それがわが国の建国の大本にもとることがわかっていない。
「春秋」にあるような、厳正な筆法(注・春秋の筆法=孔子の書いた「春秋」のような厳しい批判の態度)で王覇の弁を明らかにし、乱臣賊子たちが、みずから鑑戒(注・いましめの手本)とするようなものがないという事態は見過ごすことのできない欠陥であるとして、義公は憤然と志を立てたのである。そして、万難を排し、漢土(注・中国の古い呼び方)の史記の実例にならい、本朝の正史編纂の大業を開くにいたったのである。
以上の三大義は、義公が、伯夷伝を読んで感発なさり、以来、みずから率先実行されたもので、水戸学の根本義はすべてこの中に含まれているということになる。
この水戸学の精神は、歴代の水戸藩主に伝わり、ことあるごとに発露された。幕府の末期に、公武の間で問題が起こりそうな形勢になったとき、武公(注・水戸徳川家七代藩主、治紀)は、この精神で烈公(注・同九代藩主、斉昭)を戒め、烈公は、この精神で慶喜公を諭した。そのおかげで、王政維新の際、徳川家がその方針を誤らなかったということは、すでに前述したとおりである。(注・191「徳川慶喜公に関する史実」を参照のこと)
このようなわけで、今回の大正天皇の御即位御大典が盛大に行われたのを見て、感激に堪えず、私心を記念しようと、ついに一冊子をなしたものが、すなわち、この「水戸学」なのである。
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