【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百十九  水戸学著述の由来(中)(218・「上」からのつづき)

 水戸義公(注・徳川光圀)が十八歳のとき、史記の伯夷伝を読んでおおいに感奮した事実については、水戸家の第三世粛公(注・徳川綱條つなえだ)が、大日本史の序において記している。
「先人十八歳、適ま(注・たまたま)史記の伯夷伝を読んで、蹶然として(注・けつぜん。勢いよく行動を起こすさま)その高義を慕い、巻を撫して嘆じて曰く、載籍あらずんば、虞夏(注・虞は舜帝、夏は禹王。ともに中国の神話的な君主)の文、得て見るべからず、史筆によらずんんば、何をもってか、後の人をして観感するところあらしめんと、これにおいて慨焉として、始めて修史の志あり。原漢文

 義公が伯夷伝から感得したのは、ただ修史(注・史書の編纂)の必要のみだっただろうか、いや、義公一代の道義観もこのなかから出て来て、水戸学の全精神も実にこのなかに含まれているのである。
 この一義は、私の発見ではないかもしれないが、明白にこれを道破(注・はっきり言うこと)している先輩がないようなので、私は小著の「水戸学」の中で、特にこの所見を発表した。

 今、史記の伯仲伝を見ると、その冒頭に、
「それ学は載籍きわめて博し、なお信を六芸に考う、詩書欠けたりといえども、しかも虞夏の文、知るべきなり。原漢文
とあり、さらにその伝記には次のように書かれている。

(注: 
伯夷、叔斉の故事についてはhttps://dictionary.goo.ne.jp/word/伯夷叔斉/などを参照のこと)
 

「伯夷叔斉は、孤竹君の二子なり、父叔斉を立てんと欲す、父卒するに及んで、叔斉伯夷に譲る。伯夷が曰く、父の命なりと、遂に逃れ去る、叔斉また立つを肯んぜすしてこれを逃る、国人その中子を立つ、これにおいて伯夷叔斉、西伯昌の善く老を養うと聞き、盍ぞ(注・なんぞ)往いて帰せざると、至るに及んで、西伯卒す、武王木主を載せて、号して文王となし、東の方、紂を伐つ、伯夷叔斉馬を叩えてしかして諫めて曰く、父死して葬らず、ここに干戈(注・かんか。武器)に及ぶ、孝と謂うべけんや、臣をもって君を弑(注・しい)す(注・目上の者を殺す)、仁と謂うべけんや、左右これを兵せんと欲す、太公の曰く、これ義人なり、扶(注・たす)けてしかしてこれを去らしむ、武王すでに殷の乱を平らげて、天下周を宗とす、しかして伯夷叔斉これを耻ず(注・恥じる)、義周の粟を食わず、首陽の山に隠れぬ。原漢文
とある。

 私がこの文章を読んで思い当たったのは、義公が伯夷伝から受けた感発(注・発奮材料となったこと)は次にあげる三つの大義である。第一に、公自身が弟の身でありながら兄に先んじて封を継いだということ、第二に、君が君らしくないとしても、臣は臣らしくなければならないということ、第三に、史書の編纂がものごとを後世の人に伝えるために欠くことのできないものであるということである。これらを実現することを終生の目的とされたということである。水戸学の根底は、そこにあると言え、また義公一代の大節もまた、この中にあると言えよう。
 

 そこでまず第一の、弟の身で、兄んに先じて封を継いだ、という点から説明しよう。
 義公は、徳川家康の十一子の、権中納言源頼房、諡して威公と呼ばれた水戸藩祖の第三子である。母は、藩臣谷左馬之助重則の娘、靖定夫人である。諱は光圀、字は子龍、小字は長丸といい、のちに千代松に改めた。日新齋、常山人、卒然子などの号を持つ。また梅里と称し、退隠後に西山と号した。
 寛永五(1628)年戊申六月十日に、水戸藩士、三木仁兵衛之次(注・にへえゆきつぐ)の、柵町の家に生まれた。
 容貌端麗、気格俊邁で、六歳のとき、威公(注・水戸藩初代藩主徳川頼房、家康の11男)の世子がまだ決まらず、将軍家光は水戸家家老の中山備前守信吉に命じて、水戸公の子供のなかから世子を選ばせた。信吉は、義公が幼いながら人君の器量を備えていると見て、江戸に帰って復命したので、公は世子として小石川藩邸に迎えられた。
 七歳で将軍家光に謁見したが、その挙動に異常なく、将軍の手ずから文昌星の銅像を賜った。
 九歳で江戸城において元服した時、一字を賜り光圀と名づけ、従五位下から従四位下に叙して左衛門尉の任じられた。
 十三歳で従三位にのぼり、右近衛中将を拝した。
 義公が伯夷伝を読み、兄弟推譲の義を感じたのは、すでに十八歳に達した正保二年で、位階官爵のすべてで世子に相当するまでにのぼっており、今さら兄の頼重に譲ろうにも、事実として実行できない情勢になっていた。
 ここにおいて、公は自ら深く決意するところがあり、寛文元年七月二十九日、威公が享年四十五歳で水戸に薨じると、儒礼をもって久慈郡太田郷の瑞龍山に葬った。

 翌八月十八日に、将軍家綱の命により家督を相続する場に臨み、義公は、兄頼重、弟頼隆を威公神主の前に会して、「某(注・それがし=自分)は、常に兄を超えて家を継ぐことを本意なく思っているから、今、兄君の長子、千代松を養って、わが継嗣となすことにしたい、兄君が、もしこれを許諾するならば、某、今日命を受けようが、もししからずんば、某は別に思うところあり」といって、その決心を兄頼重に告げた。 
 またここで、二弟の頼元も、頼隆もとともに辞を尽くして頼重に説いたので、頼重もついにこれを承諾することになった。そこで公は、松千代を継嗣と定め、名を綱方と改め、その弟の綱條をも、あわせて養うことにしたが、その後、綱方が早世したので、綱條が水戸家第三世になり、こうして義公は、伯夷伝から感得した兄弟推譲の道を全うしたのである。
 


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ