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二百十五  稀音屋六四郎の至芸(下巻241頁)

 私は明治の中期より謡曲、能楽を学び、さらに俗曲にはいって、河東節と清元を稽古した。
 あるときは、薗八(注・江戸中期の浄瑠璃太夫、薗八が始めた薗八節)に指を染めたこともあったが、その後、長唄研精会を参聴するに及んで、大正三(1914)年十月から、四谷伝馬町の天馬軒に、杵屋のち稀音家六四郎(注・のちの二代目稀音家浄観)を招き、時雨西行をふりだしに、おいおい大曲を学ぶことになった。そのうち、六四郎の勧めもあったので、二、三年間、吉住小三郎の門に出入りしたこともあった。
 六四郎は毎月五、六回の来宅を欠かさず、二十年一日のごとくに継続する一方で、私たち夫婦のほうから彼を訪問するということもあり、いってみれば、通家(注・婚姻関係などの非常に親しい家)の交わりを行っていたので、彼の芸術が抜群であることを知ると同時に、芸人として容易に得難い人格者であることを知った。そのことについて詳述するとなると非常に多くの語り草があるが、これは他日に譲ることにして、ここでは私の見た大略を述べることにしよう。
 稀音家六四郎は、本名を杉本金太郎といい、維新前後の東都長唄界で一方の重鎮であった杵屋三郎助の長男である。もともと一見識持った人で、あまりに著名な名家の名跡を継ぐことをきらい、あの、勧進帳を作曲した名人の杵屋六四郎のち六翁の門弟である六四郎を相続することになった。
 六四郎とは、この人が初代で、その娘のさくに門下のひとりを娶せて二代目にしたが、その後、この男が離縁になり名古屋に行って弥十郎と名乗ったので、今の六四郎は、この平凡な名跡を継いで、三代目六四郎となったのである。
 六四郎は天性の芸才に秀でていた上に、父の三郎助が厳格な人で、少年時代からきびしく鞭撻(注・指導)したので、その技芸は、たちまち朋輩の上に出たが、本人が非常な勉強家で、二代目六四郎の妻であった、さくなどから長唄を伝習したばかりでなく、さかんに他流の芸道も究めようとした。中には、小三郎(注・吉住小三郎)とふたりで生田流の永谷検校を訪ね、地唄の影法師を稽古した際、あまりに謡いぶりが悠長なのに閉口し、とうとう逃げ出してしまったというような奇談もある。
 さて彼が二十歳ごろに作曲した「熊野」が、今日、研精会派の大曲に数えられているのを見ても、その芸術の早熟(原文「夙成」)なのを知ることができる。
 彼は普通の長唄の三味線弾きとは違って、左の指がよく利く。また作曲の材料の豊富なのもまた、その少年時代の修業のさまをうかがうに足ることができよう。
 彼の作曲は、研精会との関係上、小三郎との合作が少なくないが、自作の分だけでも、すでに二十段余りにのぼっており、大家の貫録がある。
 彼は、芸術の面で優秀なだけでなく、その人となりが誠実で、普段からよく約束を守り、同業者には寛容に接し、門下の者にも親切に対するので、門流はますます繁盛し、一男一女もまた、みな家芸をもってその身を立て、家庭円満である。
 先年には妻女のしん子と、結婚二十五周年を迎え、銀婚式祝賀会を催した。そのとき私が、彼にかわって物した(注・作詞した)自祝詞松の寿に、彼がみずから節付けした一曲は次のようなものだった。


   松の寿
本調子もろ白髪末長かれと契り  合 其百年の四分一を早や杉本の金の名に、ちなむも好しやしろかねの堅き縁の祝ひ事  合三筋の糸の長き世を唯一筋に渡る身は、心の駒のくるひなく、時に二上り三下り  浮きしづみこそ変れども、かはらぬものは相生の妹背の中の本調子 合むかしむかし江戸つ児の何たら法師のざれ言を、ちつと鳥の口まねや   小唄三下がり世の中を、ずつとすまして、是れからは四季のながめや芸事に、つれはなくとも、小酒にうかれ、そこを覚えにやならぬぞい   合本調子越し方を、思ひまはせば、楽しきも、うきも、浮世の夢にして、彼の邯鄲の夢の間の、半ばは、すでに過ぎたれど、見のこす夢の春秋は  合 まさきのかつら、末ながく、めでたき御代にながらへて、君がめぐみをあふがまし  合面白や、雲白く、月さやかなる、銀世界  合 ながめながめて、又さらに   合 黄金の花の咲く春を、心のどかに  合 松の寿。

 
 六四郎は、その人となりが温厚洒脱でウイットに富み、ユーモアにも長じていた。酒をたしなみ、一杯機嫌になったあとに
さかんに連発する駄洒落の中には、時に掘り出し物といえるものがあった。
 あるとき、上野山下の鉄道の踏切にさしかかって通行止めを食ったとき、同行者をふりかえり、「お止め汽車待つお染久松はどうでしょう」と言ったり、大阪の淀川で、老婆を載せた円タクが川の中に落ちたという話をきいて、「婆は川へ円タクに」婆は川へ洗濯にと言ったりするような洒落の数々は、枚挙にいとまがない。
 興に乗れば、人の求めに応じて下條桂谷ばりの墨竹を揮毫することもあった。その号を、一齋というが、これは彼が私に、隠居したあとに雅号を用いたいと思いますが、何か命名していただきたいという注文されたとき、すごろくのさいころでは、六の裏が一であるから、六四郎、隠居して一齋、ではいかがかと言ったのが彼の気に入ったものか、ついにこれを採用したのである。
 とにかく彼の至芸は、明治後半期から今日まで、小三郎の名調とあいまって邦楽界に貢献するところが少なくない。これはみな、彼の少壮時代自他諸流の猛練習ほかならないので、ここでいささか彼の平生を記して、後進子弟の奮起を促そうとする次第である。


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