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二百十四  権八郎調子外しの段(下巻238頁)

 歌舞伎座での「春日神話妹背の鹿笛(注・前項の213を参照のこと)」は、河東節と同様、簾内語り式で、最初はきわめて大事をとり清元延寿太夫一門の玄人連だけで興行したが、中日ごろから、そのころ清元もしくは東明節を稽古していた高窪喜八郎、花月主人の平岡権八郎をはじめ、自称「天狗」の連中が数名簾内に割り込み、玄人連にまじってそれぞれの受け持ちの場所を語るということになっていた。
 そこで、いろいろな場所に集まり猛練習を続けいよいよこれでなら大丈夫ということになったので、私も無論その連中に加わり、延寿太夫張りの四本という高調子で、「山の端いづる月さえて」と謡い出したのが案外好評を得た。すると、われもわれもと連中がどんどん増えていった。
 さて、私がこの連中に加わったことについては、いささか思うところがあったのである。従来の日本の芸術家には、封建時代の遺習で自尊心の持ち合わせがなく、一種下級の人種であるかのように、みずから甘んじてそう心得ており、芸術そのものに対する崇高な観念が薄弱であった。試みに西洋諸国を見れば、芸術のたしなみある紳士が家庭内や公開の席上で、随時その余技を演奏することは当座の清興(注・上品で風流なたしなみ)を助けるだけでなく、健羨(注・非常に羨ましく思うこと)の的とさえなるほどなのである。ところが日本においては、音曲をたしなむ者が一種の道楽人のようにみなされ、芸事は外聞をはばかり隠蔽するものであるという弊害がある。
 そこで私は、この際すすんでこれを打破しようと思ったのである。旧習を革新する一端として、先ず隗より始めよ、の先例を示したわけだ。
 こうして私がこの決意を同好者に告げると、延寿太夫は私に、今度のような紳士の演芸は世間の耳目を一新するのはもちろん、玄人どもにも、わが芸術の価値を知らしめることになり、従って、その風紀を振粛(注・奮い起こし、引き締める)する端緒ともなるので、この道のため、幸慶のいたりであると語られたものだ。
 これが、素人連の簾内語りの始まりの次第であったが、興行が始まるや、「権八郎調子外しの段」という、舞台以上に面白い一幕が演じられることになったので、その話もしなくてはならない。
 花月楼主人の平岡権八郎は、義弟の高橋某と共に連中に加わった。高橋は最初の「山の端いづる月さえて」を、平岡は「みだれし髪をかきあげて」の一節を引き受けたのだが、高橋が太鼓の掛け声に釣り込まれてカッとなり、「山の端いづる」を一調子高いところから謡い出したため、桂寿郎が助け船を出してこれを救った。すると、今度は平岡がその例にならい、「みだれし髪を」というところを、またまた高調子で謡い出してしまった。これも桂寿郎が取り繕い大穴をあけずには済んだものの、こういう場面ではなにかが起こるのではないかと待ち構えていた連中の喜びようは普通ではなく、さっそく平岡や高橋の妻たちに、「君たちは今朝、金神様にお参りして、良人の無難を祈られたというのに、マンマと調子をはずされたのは、誠にお気の毒千万である」と丁重な弔詞を述べる始末で、本人たちは近所に居ることもできずに一時影を隠したという噂も出、ひょっとしたら身投げでもしはしないだろうかなどと案じる者もあらわれ、時ならぬ悲喜劇の一幕が演じられたのである。これは、この狂言にまつわる大愛嬌であった。
 ところで、家元である吟舟翁はこれを興がることと思い(注・おもしろがって)、連中を集め、その善後策を講じたのであるが、その席上、次のような話をされた。
 「往時(注・むかし)、浅草の札差の某が、河東節の隅田川を一中節と掛け合いで謡ったとき、某は河東節で狂女の出を語り出したが、三度ほど出直してもなお三味線の調子に乗らなかったので、その場はそのまま引き下がった。翌日みずから悪摺りを作り、隅田川の渡船の上に、笹を担いで乗り込んだ狂女が舷によりかかってヘドを吐いている図を、当日の連中に配布したので、さすがに某は洒落者なりとて、かえって好評を博したのだった。されば今度も、その例にならい、花月と高橋と両人より、自発の悪摺りを配布するが宜しかろう」
ということで、翁が即座にしたためた図案は、高い山の上から顔を出している者がいるところに、上の方から長い手を出して、その頭を押さえている者がいる。その山の下に、本街道という制札(注・せいさつ。注意書きの立て札)があるのを、山の上の人が見下ろして、「あれが本街道かいな」と言っているところであった。そして、平岡のほうは、平岡の似顔絵である男が背中に金神様の御札を背負い、乱れ髪の逆立っている頭の上に手をのせているところで、その口上書きには「乱れし髪を掻き上げ過ぎて、今更何とも……」とある趣向だった。
 この平岡は、油絵や水彩画もうまく帝展に入選するほどの技量を持っているので、その後、自筆でこの図案の悪摺りを描き、それを連中に配布し、外れてしまった調子を取り直したということだ。まことに珍事であったというべきであろう。
 この時は、欧州大戦の影響で、日本に好景気の波が盛り上がりはじめ、人の気持ちも自然にうきうきしていたので、このような喜劇も飛び出したわけで、これもまた、時代の相のひとつをあらわすものだったと言えるだろう。


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