二百十三 春日神話妹背の鹿笛(下巻234頁)
大正四(1915)年十月の歌舞伎座の興行で、一番目に、同座付き作者である榎本虎彦(注・原文では寅彦)作「春日神話妹背の鹿笛」が上演されることになった。
この狂言は、昔、奈良の春日山で若い男女が密会をしようとして合図の笛を吹き鳴らしたが、妻を恋う鹿が集まってきてその密会を妨げた。それに怒って、あやまってその鹿を打ち殺したのが娘に祟り狂乱してしまった、という伝説を、あの妹背山の狂言(注・妹背山婦女庭訓)の求女とお三輪の情事に結びつけたもので時代がかった甘い筋書きであったが、中村歌右衛門がお三輪をつとめるので、狂乱する場面で東明節を使用したいと家元の平岡吟舟に懇請した。
ところが平岡翁は、明治二十九(1896)年に九代目団十郎の助六興行のときに河東節連中を引き受けたという経験もあり、年をとってからそのような面倒を見るのはまっぴら御免であると断られた。
そこで歌右衛門は次に私夫婦を訪ない、翁に勧めてくれるようにと頼まれたので、九月二十六日、私たちは酒匂に滞在中の吟舟翁をたずね、段々熟議の末におおよそ引き受けてもらえることになり、清元延寿太夫一門を東明節連中とすることと東明流節付けのために開場を十月三日にすることを条件に、座元の松竹の承諾を得た。
助六の興行の河東節連中のときを例にとり、芝居茶屋の武田家を連中席にあて、裏千家流の藤谷宗匠(注・「萬象録」によれば藤谷宗中)が毎日同家に出張して薄茶席を受け持った。床には、抱一上人筆の鹿に葛の花の二幅対を掛け、一方の壁床には、家元吟舟の雅号にちなみ、藤村庸軒筆の老人舟中に吟ずるの図を掛けたりして、飾り付けにも万端善美を尽くした。
この時、東明節社中として名前をつらねたのは、唄が二十一人、三味線が二十二人で、中日ごろから、この素人社中が飛び入りしようという計画になった。
初日の唄は、清元延寿太夫、清元桂寿郎、清元魚見太夫、三味線は梅吉、梅之助、菊之助の顔ぶれで開場した。
歌右衛門はこのころ五十歳前後で芸道熟練の最高潮に達した時であるから、例の鉛毒症で身体はいくぶん不自由ではあったが、東明節と、つかず離れず、振り少なく上品に踊りこなした。
特に、吟舟翁の好みで入れた狂乱の幕切れに、お三輪が石灯籠にたおれながら向こうを指す姿が、前例のない良い型であるとして非常な人気を博すことになった。
この東明節の文句は、次のとおりである。
本調子〽山の端いづる月さえて、笛のしらべもしめやかに、音もすみわたる想夫恋 〽ゆうしでかくる神垣に、神灯のひかり、こうこうと、照す木のまに、ちらちらと、見えつ、かくれつ、さをしかの、思ひは同じ、鳴くこゑに、妻をしたふて来りけり。
〽みだれし髪をかきあげて、むすぶえにしは、をだまきの、糸よりながきおもひだけ、 合〽ふえの歌口、音をとめて、より来る鹿を、てうとうつ 合〽笛は二つにせみをれのもろき命のさをしかや 合〽こゑも一時になきやみて、夜嵐ばかりぞのこりける 〽あはれなり、いつしか狂女と 合〽なる鐘の、雲のひびきのあとたえて、こひしき人ぞしのばるる。
二上り〽春日野に、むらさきにほふ、袖のつゆ 合〽なさけは、君を思ひでの、鏡にうつるおもかげは、心のまよひヲ、それそれよ、イヤイヤそこにいやしやんす 合〽花にもまさるわが君の、すがたはきえて、かげろふの、なぎの落葉や、まぼろしの、夢かうつつか、白雲の、ちぎれちぎれは、秋のそら、こずゑを鳴らす、ねぐら鳥、つまよつまよと、きこゆるを、若しやと思ふ恋のよく 合〽わけゆく蔦の細道を、たどりたどりて、三笠山 合〽手向の紅葉くれなゐの 合〽焔にまがふ棹鹿は、笛のしもとに、世を去りし 合〽うらみをここに、ゆふだすき、神のむくいを ナヲル〽おもひしれ。
本調子〽すがたみだるる、花のつゆ、おもき呵責も、恋ゆゑに、くるひくるふぞ、あはれなる。
この狂言では、お三輪狂乱の場で、結城孫三郎の操り鹿が八匹あらわれて、そのうちの一匹が、お三輪の笛でうち殺される趣向だった。総ざらいの時、この鹿が滑稽に見えないだろうかと心配する向きもあったが、実演においては案外好成績をあげ連日満員の盛況を呈した。
その一方、家元の吟舟翁が負担した東明流連中席の武田家は、例の花柳国の女将軍らが押しかけて大入り満員であったばかりでなく、最後の三日間は、この連中が大そそり(注・歌舞伎の千秋楽などで、筋や配役を変えて滑稽に演じること。そそり芝居)を演じて、さまざまな談柄(注・だんぺい。話の種)を残した。これは、大正初期の演劇界における、ひとつの異彩だったのではないかと思う。
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