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二百十二  老母の永眠(下巻230頁)

 私の老母は、大正四(1915)年九月六日に享年八十九歳で永眠した。このことはもちろん一家庭の私事ではあるが、老母は高橋家に対して並々ならぬ勤労を尽くした婦人なので、その死去の前後の状況につきここに一筆することを許されたい。
 老母は水戸上市の士族、野々山正健の妹で、八十子といった。高橋家に嫁して四男二女を産み、維新前後の国難に当たって内助の功が多かったということは前述したとおりである。(注・10「慈母の奮闘」を参照のこと)
 野々山家は長命の血統で、祖母は九十六歳の高齢を保ったということであるから、老母も疑似赤痢にかからなければもっと長く生存したのかもしれない。
 私は八月三十一日に老母が発病した知らせを耳にし、さっそく医学博士の木村徳衛氏を同伴して看護婦とともに水戸に駆けつけたが、その翌日の九月一日に、興津において井上世外侯爵が薨去されたので、老母の病間をうかがって、いったん帰京して井上家を訪問し、老母危篤の状況を述べて侯爵夫人の諒解を得たうえで再び郷里に立ち帰った。
 すると老母は、例の謙遜な性分のため、井上さんの葬式は何日かと問い、自分には構わずにそちらに参加するがよろしいと、縷々私に注意されるので、私はとても当惑した。
 医師の内話によると、臨終はもはや一両日に迫っているというので、意を決しもっぱら老母の看護にあたることにした。
 こうして、九月六日に老母が永眠した。最初に来診した水戸の侍医が、すでに赤痢と診断しているので、法規に従い荼毘に付すほかはなく、死去後ほどなく市外佛日山常照寺の火葬場に送り、翌日遺骨を拾って小甕に納め、一週間後すなわち九月十三日に、水戸士族の墓地である酒門(注・水戸市内の地名)の蓮乗寺に埋葬した。
 私は、明治四十(1907)年の老父の葬儀のときに老母が生造花の行列を非常に喜んだことを思い起こし、今回は、いろいろなところから贈られた香華料のすべてをもって生造花六、七十対の行列を作ったので、水戸では空前にして、おそらく絶後であろうと言う者さえあった。
 水戸士族の葬式は、会葬者がまずその名刺を玄関の受付に差し出した後、門前の両側に立って並ぶ。すると喪主がその前にやってきて挨拶し、そこから棺の前に進み、親戚一同とともに黙礼しながら会葬者の面前を通過し、会葬者も棺のあとに従って粛々として墓地まで徒歩で行く。そして墓地の受付に名刺を置き引き取る、というのが常例となっている。このときの葬儀では、もちろん伯兄(注・長兄)の純が喪主で、まことにつつがなくすべてが済んだ。
 私の両親は、双方とも八十九歳の高齢を保った。今回試しに数えてみると、老母の子、孫、曾孫、玄孫(注・やしゃご)合わせて六十四人だった。
 しかもこれがみな正系本腹の子女なので、ずいぶん多いと思われるが、それもさることながら、存命中に玄孫を見たということは、とても珍しいことだろう。
 私の兄弟姉妹(原文「同胞」)は、姉が一番上で、これが中主氏に嫁いで、長女雪子を産み、雪子が三木氏に嫁いで長女をあげ、その長女がさらに他に嫁いで一子を産んだ。これが老母にとっての玄孫である。
 女子が二十歳で子供を産むとして、これが四代、つまり八十年たたないと玄孫を持つことはできない計算なので、生前に玄孫を見る者は特別に子福者の系統だといえるだろう。
 老母の歌に 
    月花のながめもあれどすごやかに おたつうまご見るがうれしさ

というのがある。老母も、非常にこの多福をよろこんでいたのである。
 私は、相貌、性格、嗜好のどれもが老母に酷似しており、また男子四人の中では私が末子なので、母はいつも私を秘蔵っ子としていたらしい。したがって、私の愛慕も一層深いものになった。
 老母の死去する十か月前、つまり大正三(1914)年の十二月に私が帰省した際に詠んだ十吟は次のようなものであった。
  
   
 あなたにぞ母は住むなる見るたびに 恋しき山は小筑波の山
    冬さればいとど身にしむ故郷の ははその森の木枯の声
    門に立ち我を待つらむたらちねの その面影のまづ浮びつつ
    語らむと思ひしことは忘られて ただあひ見ればうれしかりけり
    今もなほ我を幼き児のごとく 思ひなすこそ親心なれ
    ふりし事とひつとはれつするほどに 幼な心に我もなりけり
    故郷の昔をしのぶ片岡の 松も薪となる世なりけり
    むかし我が釣せし池をよこぎりて かなぢ車の走りゆく見ゆ
    かへり来てしばしやすらふ故郷の 柞の蔭ぞ立ちうかりける
      (注・柞=ははそ。コナラ。母の意味とかけて秋の季語として用いる)

    来む春は又ともなひて花を見む 冬籠りしてすごやかにませ

 昔、在原業平が、長岡に住んでいた老母に、

    世の中にさらぬ別のなくもがな 千代もと祈る人の子のため

と詠み送った例もあるように、どんなに高齢であろうとも母の死去を遺憾に感じないという者はないだろう。しかし五十五歳まで老母を持っていた私のような者は、あまり不足を言うことは、できないかもしれない。


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