二百十一 井上世外(注・井上馨)侯の薨去(下巻227頁)
井上世外侯は、大正四(1915)年九月一日、興津の別荘において薨去された。享年八十一歳であった。
侯爵は、王政維新という日本未曾有の大変動が起きたときの大偉人である。
その性格は非常に変化に富んでいた。ある時は政治の難局に立ち、伊藤(注・博文)公爵その他の同輩のために縁の下の力持ちとなり、あえてその功を誇らぬというような美点があるかと思えば、それほど重大ではない事件を達成したときに、無遠慮に自分の働きを自慢することなどもあった。
非常に強情で、意地が悪いようであるかと思えば、その反対にいたって涙もろく、徹底的に親切なところがあった。
気が向かないことがあると大声で怒号し相手を叱りつけるので、雷さんだの電光伯だのという綽名(注・あだな)さえあったが、その一方で、先だった友人の後始末などを引き受けたり、芸人などをかわいがったり、また、特に婦女子や弱者に対し、まことにやさしい同情と援助を惜しまないため、私はある人に「井上侯の一身は、多種多類の合金のように、鉛もあれば金もあったり、銀、銅、亜鉛などもあり、硬軟貴賤、種々の混合物である」と評したこともあった。
続いて、侯爵の文芸的方面をふりかえるならば、詩、書においては伊藤公爵に及ばず、和歌においては山県(注・有朋)公爵の敵ではないが、書画骨董の鑑賞においては、はるかに両公の上に出ていた。
また時に狂歌を弄んで、その胸の内を洩らされることがあったが、ウイットもあれば、ユーモアもありで、通人ぶりにおいてもまたなかなか隅に置けないところがあった。
井上侯爵が維新の元老として国事に尽力された功績は、薨去の際に、大正天皇陛下から賜った誄詞(注・るいし。死者の生前の功徳をたたえて述べる哀悼の言葉)の中に、炳焉として(注・へいえんとして。はっきりと)光輝をはなっているから、いまさらそれを詳説する必要もないが、私が侯爵と知り合ってから二十六年間に、生来のもので侯爵以外に見ることができない特徴だと思われたのは、侯爵の体内に充満する気魄が物事に激して爆発するときの猛烈さである。これには、維新前後の少壮時代には、この元気がいかに旺盛であっただろうかと想像するに足るものがあった。
明治四十二(1909)年ごろ、ある事件に対し侯爵が非常に激怒しておられた最中に、私は当面の関係者ではなく、むしろ侯爵を鎮撫する使者として内田山邸に推参したことがあった。そのとき侯爵は、苦り切った相貌で、たばこ盆を引き寄せ、鉈豆煙管(注・なたまめぎせる)で灰吹をポンポンと叩きながら、声をからして不平をひとくだり説き終わるや、怒気満面、眼中よりちらちらと電光のような閃きがほとばしり、私はほとんど見上げることもできないほどだった。世人が侯爵を不動尊に擬したのは、いかにももっともだと思われた。
もともと侯爵には、外交家的な機略がないことはなかったが、どちらかと言えば直情径行の人で、物事があいまいであることを許さず、晴れでなければ雨、白でなければ黒、というやり方をした。よって、敵にはあくまで憎まれるかわりに、味方には、あくまで慕われる人物である。
だから、侯爵の親切が過ぎて、かえって非難の口実を与えてしまい、しばしば誤解されてしまうことがあったものだ。
その一例は、明治三十一、二(1898~9)年ごろ、東本願寺が侯爵に財政整理の役目を果たしてくれるよう懇請したときのことである。侯爵は京都の停車場で、本願寺から来た出迎えの馬車が立派なのを見て、人に財政の整理を頼もうとする者が、なんの余裕があって、このような贅沢をあえてするのかと、自分で辻車に乗って同寺に押しかけた。そして、朝の九時から夕方六時まで当事者から財政の状況を聞き、やがて運び出された食膳をみるなり、侯爵の癇癪玉はたちまち破裂した。「これみな、善男全女が寄進したる粒々辛苦の物ならずや、これを思えば、かかる膳部が喉を通るか」と罵倒したので、本願寺の僧侶たちは非常に驚き、その日限りで、内々で「くわばら、くわばら」と叫んで、敬遠主義を取ったものである。
侯爵の薨去の際に、徳富蘇峰氏はこれを評し、「明治の幡随院長兵衛」と呼んだことがあったが、政治でも、実業でも、頼まれて「うん」と引き受ければ、勇往邁進、水も火も避けずに進むという趣があり、いってみれば、高等な男達(注・おとこだち。侠客)の面影がないでもない。
もともと侯爵は世話好きで、友誼(注・親しい仲間への友情)に厚かった。ある事件を処分を三浦観樹将軍(注・三浦梧楼)から頼まれて、それをさらに私に託されたことなどもあったが、伊藤博文公爵とのあいだは、また格別で、あの管鮑の仲(注・親友。中国春秋時代の管仲と鮑叔の故事から)もおよばないほどで、公爵が困難にあるのを見れば、どんなときにも駆けつけ、人足(注・力仕事をする労働者)になることを辞さなかった。
また国家の大事とあらば、割の悪い役目をみずから買って出てこれに当たることもある。日清戦争後に朝鮮公使をつとめたのなどがそれである。
また日露戦争の際、侯爵に軍国財政上の援助をしてもらおうとしたとき、なんでもよいから官職について尽力してはどうかと伊藤公爵から申し入れたのに対し、侯爵は、「国家に尽くすために官職は必要ない」と言い、伊藤公爵は、その高潔な心事に感嘆し、次のような和歌を贈られた。
国の為尽す心を大君の しろしめすをもいとふ君かな
井上侯爵は、この一首に、知己の言として非常に感激されて、生前、それを立派に表装して家宝にされたということだ。
さて、侯爵の逸事については、すでに前項でも述べたし、ほかにまだ記述するべき資料も少なくはないが、これはまた他の機会に譲り、今は、維新の元勲たる偉人の長逝に対し、謹んで満腔の(注・全身全霊の)弔意を捧げるだけにとどめておこう。
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