二百十 大江天也坊(下巻223頁)
大正四(1915)年七月二十一日のことであった。大江天也坊が私の四谷天馬軒を訪問して、その主宰している弘道会のために一臂の(注・いっぴの。片方のひじの=すこしの)援助を乞いたいという相談があった。
天也坊とは誰あろう、土佐の豪傑、大江卓の成れの果てである。
彼は明治初年より政界で活動し、片岡健吉、林有造らとその名を並べ、板垣伯爵とともに自由民権の説を唱えた。
後年、衆議院議員になり、あるいは東京株式取引所の理事長などになり、一時の羽振りはすこぶる豪勢なものであった。
彼は、後藤象二郎伯爵の末娘をめとり、岩崎弥之助氏と義兄弟の縁故もあった。
明治八、九(1875~6)年に岩崎弥太郎氏が金銭上の都合で政府から十万円の交付を得たいと願い出るにあたり、彼はその使者となり首尾よく大隈侯を説きつけたので、弥太郎氏はおおいにこれを徳とし、後日彼にむくいるところあるべしとの一札をおくったということである。
さて、大江氏の末路ははなはだ振るわず、困窮の頂点に達したとき、彼の親友は見るに見かねて、君はなぜ、あのお墨付きを役立てて、この窮境からのがれようとしないのかと注意を向けると、彼は頭を左右に振り「鷹は餓ゆとも穂を啄まず、僕は何程窮しても、かの一札を利用しようとは思わぬ、しかし、いよいよこれを利用する時節が到来すれば、百万円以上には物を言わせてみせるよ」と言って呵々大笑されたという。この一事をもっても彼の豪快さを知るに足るというものである。
大江氏の東京株式取引所理事長時代の豪勢ぶりは、実にすさまじいものであった。あるとき、出入りの道具商を引き連れて加賀金沢に乗り込み、名家の道具をよりどりに買収しようとしたことなどもある。
氏の所蔵品には、現在、山本達雄男爵所蔵の、一休和尚がその衣の裂で表具したという大燈国師の墨蹟や、某大家に収まっている知名な古筆手鑑などがあって、茶の湯を催すまでには至らなかったが、益田紅艶(注・益田孝の末弟英作)らを友とし、一時は美術鑑定家の巨頭になったこともあった。
しかし、理財、実業は彼の得意とするところではなく、傲骨みずから持して(注・誇り高さを崩さず)、和協性に乏しかったため、晩年に蹉跌(注・失敗、目論見違い)が相次いだとき、翻然として大に決心するところあり、高齢六十八歳にしてはじめて曹洞宗にはいり、本郷の麟祥院で落飾式なるものを挙げた。そこには多数の知人が集まり、今道心天也坊の僧形を披露するという奇行を行ったのである。
さて、本日の彼の訪問の要旨は、次のようなものであった。(注・一部わかりやすい表現になおした)
「明治四(1871)年の四民平等(原文「四民同等」)の発令(注・太政官布告)では、従来身分違いだった××(注・原文どおり)を公民と認めたのであるが、それから四十年たった今日になっても、旧習はいまだに去らず、東京はさておくとしても、ある地方に行けば、いまでもまだ××を排斥し、互いに同化していない。昔、××が支配していた乞食、非人のほうが、かえって普通良民にまじって、その間に何ら区別を見ないようになったが、今や全国で百二十万を数え、かつ年々増加傾向にある××のほうはそうではない。
特に、山陰、四国、九州などに行くと、彼らと縁組することはもちろん、そのひさしの下に立つことさえ嫌われ、融和するのが難しい状況である。これは人道的見地から、もはや片時も見過ごすことができない。
今日、わが同胞に対してこのような区別が存在することにより、彼らが危険思想を持つおそれもある。
いずれにせよ、発令の趣旨に照らし、少しでも早く、彼らを良民と同化させることが急務であると感じ、ここに弘道会を発足させた。
さいわい、三井、三菱その他から、すでに若干の寄付があり相当の金額に達したので、これからその基金を使って巡回教師三名を各地に派遣し、自分もときどき出張して余生をこの教化に託すつもりである云々。」
大江氏は明治初年に、奴隷解放(注・明治5年横浜港で中国人奴隷をペルー船から救助したのマリア・ルーズ号事件のことか?)のことに関わり、大に気焔をあげた経歴もあり、普通の経世家があまり着眼しないようなこの類の感化事業に関係することは、その性癖が普通の人とは少し違っていることを教えてくれる。
前述した通り、氏は益田紅艶と同気相求むる親友であり、その嘲謔遊戯の中には、稚気満々であとあとまで話の種になるものも少なくない。
大正十(1921)年、紅艶が築地の自宅で危篤の際、天也坊もまた病気で麻布の家におり、みずから往訪することができないからと、ある日私に電話をかけてきた。「紅艶がいよいよ危篤だそうだが、僕も老病で動けぬから、君がもし紅艶に会ったら、どちらが先になるか知らぬが、お互いに三途の川で待ち合わせ、堂々と閻魔の廟に乗り込もうではないかと、伝言してくれたまえ」ということであった。 天也坊の奇癖は、だいたいがこうした類のものであり、晩年には壮士の遅暮の嘆(注・ちぼのたん。老いていくことへの嘆き)がなかったとは言えないものの、それでも、豪快な一人傑たるを失わなかった。
「箒のあと」210 大江天也坊
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