二百九 森村翁懐旧談(下)(下巻220頁)
(注・207・森村翁懐旧談(上)、208森村翁懐旧談(中)からのつづき)
森村市左衛門翁の懐旧談は、こんこんと尽きることがない。今日も、そのいちばん有益で興味ある部分を続けることにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした)
「福澤先生が時事新報を発行せられた直後、手前は先生に向かって、どうも新聞に六つかしい字が多くって、読みにくくって困るから、もっとたくさん、ふりがなをつけていただきたい、と申し出たところが、先生の言に、ふりがなを多くつけようとすると、費用がかさんで新聞の経済に関係するが、しかしもしお前が読みにくいというようでは、世間一般に困る人が多かろうから今後は一層多くふりがなをつけよう、ということであった。
それから、そのころ正金銀行が外国為替相場を秘密にして、その間にかけひきをなすので、これも先生にお願いして、為替相場表を毎日、新聞に出していただくこととしたので、正金銀行なども、もはやごまかしができなくなって、当時の外国貿易商人にとっては非常の便利でありました。
福澤先生は、つねに独立ということを説かれ、商売人は他人に依頼せずして、みずから商売上の工夫をなさなくてはならぬ、独立の工夫のない者は、決して偉い商売人にはなれない、と言われた。
その実例に『昔、越後屋の手代が外出して帰りが遅くなったのを番頭が大いに叱りつけたところが、その手代が申すには、私は今日、某所で非常に面白い柄の帯を締めていた女を見かけ、その柄を見届けようと思って、あとを追いつつ両国の方まで参り、その女がある家にはいったので、やっと気がついて、ただいま帰店したのであるが、その帯の柄はかくかくのものであるから、是非ともこれをお仕入れなさいませと勧めたが、番頭がこれに応ぜぬので、暫時うっちゃっておいたが、その手代が思い出しては、しきりにこれを勧むるので、とうとうこれを仕入れたところが、これが非常に人気に投じて、たちまち多額の売り上げを見たので、番頭もおおいに感心して、その手代をさっそく仕入方に回したそうだが、畢竟、商売に忠実で、平常注意を怠らず、独自に種々の工夫をするのが、商人に欠くべからざる要素である』と申されました。
先生のそのひと言は、手前の米国雑貨商売にとって、もっとも貴重なる金言で、米国に輸出する商品を仕入れるには、常にこの心持を忘れてはならぬと、手前は毎度店員に注意している次第であります。
また先生が、手前どもに一生涯の利益を与えてくださった教訓は、『学問というものは、本を読むばかりではない、箸の上げ下ろし、横町の曲がり角、これに注意するのが、実際の学問である』ということで、商売のことを、寝ても覚めても念頭に置き、横町の曲がり角に立って、どちらに行こうかと、ここで方針を定めて進めば、商売上に失敗することがないのである。
商人が時勢を考え違って、とんでもない失敗を招くのは、畢竟、この工夫を怠るからのことで、手前は毎度、店の若い者に向かって、このことを申し聞け、時勢の進歩が、ますます急激になれば、箸の上げ下ろしや、横町の曲がり角で、一段深く注意しなくてはならぬと申しておりますが、これはまったく、先生のありがたい教訓であります。
福澤先生は時として、突飛なことを言い出さるるが、これは偶然に言い出さるるのではなく、実験上の信念より発する名言で、これを味わえば、いかにももっともだと、うなずかるることがあります。
ある時、明治政府に志を得て、参議などになった人物が、非常に偉くて凡人でないように思う者もあるが、彼らはみな、まぐれ当たりである。時勢に推されて、ただぶらぶらとその位置に紛れ込んだ者で、これなどは、道楽の僥倖というものであろう、と申されました。
またある時、先生は手前に向かい、北里柴三郎がドイツから帰ってきて肺病研究所をたてようとするのを大学の連中が妨害するそうだが、これは学問上、非常に大切なものであるから、一時出金して補助してくれぬかと言われたので、手前は快くこれを承諾しましたが、その後、同研究所に参ってみると、政府の役人が二人ばかり来合せて、北里に勲章をやるという話を持ち込んでおった。ところが先生は、その役人らに向かって、勲章では研究所が建たないから、勲章を出すくらいならば、生でやるが宜しいではないかと彼らを揶揄っておられました。
また、手前は雲照律師を信仰していたので、ときどき先生に宗教談を持ち込んでみたが、そのときはあまり、お気に向かないようであった。しかし、晩年、大病にかかられて後、はじめて筆をとって、私のところへ左のごとき文句を書き送られました。
本来無一物とは云ひながら、無物の辺には自から勢力の大なるを見るべし。
明治三十二年秋、 福病翁
この語を味わいますと、先生も宗教については、まったく無関心ではなく、なんとやら、意味深長なるものがあるように思われます。」
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