二百八 森村翁懐旧談(中)(下巻216頁)
(注・207・森村翁懐旧談(上)からのつづき)
森村市左衛門翁は上背があって体格も立派であるし、後年、白髪になってからは、なにやら絵に描いた神農氏のような、いかにも上品な相貌で、しかもその性格が律儀勤勉であった。ただし若年のころから宇治紫文の弟子になって一中節を語り、その堂奥に達したというような江戸趣味に富んだ半面もある。信仰心が深く、雲照律師に帰依し持戒を怠らなかったように、おのずから宗教家のようなところがあった。
さて翁が前記のとおりの道をたどってついに外国貿易に着眼し、アメリカに対して日本雑貨輸出の先鞭をつけることになったのは、単に森村一家のためだけでなく、実にわが国の貿易上の幸慶というべきであろう。
そのアメリカ貿易を開始するに至った経緯について翁がみずから語るところは次のとおりである。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした)
「明治五、六年ごろのことと思いますが、手前は外国貿易のことが念頭を離れぬので、自分の弟の豊【とよ】を慶應義塾に入れましたが、これはただ学問をさせるばかりでなく、簿記法の帳面をつけたり、外国人と会話したりすることを覚えさせようというためであった。
このとき、福澤先生は手前に対して、それは面白い考えである、これまで塾に来る者は、みな学問をして参議になろうというようなことばかり考えているが、学問をして商売人になろうというのは、非常に面白いことであると申されました。
かくて弟が慶應義塾を卒業するや、暫時、教師のような真似をしておりましたが、明治七年ごろ、小幡篤次郎さんが突然私の宅に参って、今日は福澤先生の使いで来たが、お前の弟の豊を、米国へ遣ってはどうであろう、先生は書生を米国に遣って、商売を見習わせ、外国貿易の基を開かなくてはならぬというので、それぞれ知人間をを説きまわった結果、早矢仕【はやし】有的をして、鈴木尾という男を米国に遣って茶のことを調べさせ、また同時に荒井領一郎に生糸貿易のことを見習わせることになったから、雑貨のほうは、お前の弟がよかろうというので、自分は先生の代理で、お前にそのことを勧めに来たということであった。
そのとき手前はこれに答えて、それは手前の力の及ぶところではない、今、アメリカに人を遣るには、五百円か千円を要するであろう、これという目当てもないのに、そんな大金を使うことは、とても手前にはできませぬとて、断然お断りをしましたが、小幡さんが再三勧めに来らるるので、だんだん取り調べてみると、船中の寝台の下やら、または甲板の隅などに寝転んでいるような、最下等の旅客となれば、二百何十円かで紐育(注・ニューヨーク)まで行かれるということであったから、手前もついに奮発して、弟を米国に遣わすことに決したが、弟は渡米の後、五か月かかって、ポーキプシーのイーストマン学校を卒業し、それより、ささやかなる雑貨店を始むることになりました。
ところが、かの地で売り上げた金を日本に送り、その金で仕入れた品物をかの地に送るという、この金の運搬が非常に困難であったのは、当時、為替というものがなかったからであります。
そこで手前はこのことを先生に相談すると、先生は俺が外務省に掛け合ってやろうとて、そのころ先生は頬かむりをして、馬に乗って歩かれましたので、今度も同様の姿で外務省に参り、時の外務卿に相談せられた結果、政府が紐育で日本の領事館に支払う給料を、森村が紐育で領事館に渡し、その替金を、東京で森村が外務省より受け取るということに相談がまとまって、その金額は、一か月千ドル内外であったが、とにかく先生がその工夫をつけてくだされたので、手前どもは非常な便利を得たのであります。
ことに、当時、森村などと申しては、政府になんの信用もなかったので、福澤先生がその談判相手となり、領事館で入金したという照会が先生のところへ回ってくると、先生は例の通り、頬かむりをして馬に乗り、外務省に出かけてその金を受け取って、手前のほうに渡すという順序でありました。
それでは恐れ入りますから、手前どもが受け取りに出ましょうと申すと、先生は、お前のほうでは金が早く要るだろうから俺が受け取ってくると言って、いつも自分で外務省に出かけられましたが、当時、日本の一円は、米国の一ドルよりも少しく高く、かの百ドルが、日本の金で九十何円という割合でありました云々。」
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