二百七 森村翁旧懐談(上) (下巻213頁)
明治二十五、六(1892~3)年ごろのことであった。松方大蔵大臣を三田の私邸に訪問して種々談話中、私は、政府が勲爵(注・勲等と爵位)の授与を政治家や軍人方面に限って、実業方面に及ばさないのは、まことに遺憾千万である、日本は今後、商工業によって国を立てなくてはならないから、その奨励の一端として、この方面にも勲爵の授与がなされるべきである、と陳述した。
すると松方大臣は、「至極ごもっともでごあす。それは俺も賛成でごあすが、しかしそのような実業家はいたって少なく、見渡したところで真に勲爵に値する者は、米国に雑貨貿易を開いた、森村(注・森村市左衛門)くらいのものであろう」と言われた。
私はそのときはじめて、森村翁の事業がそれほど顕著なものかということを知ったのである。
その後、森村翁が福澤先生のお宅で一中節を語られたとき私もこれを参聴し、その一中節には閉口したが、とにかく翁と福澤先生に密接な交際があることを知り、大正初年、私が福澤先生の事歴探問を始めた際、まず翁を訪問してその談話を聴聞した次第である。
その談話中には、維新前後における横浜の状況、米国貿易の開始、その他商業に関する福澤先生の注意などについて、当時の光景をしのぶような事実談が少なくない。そこで、翁の談話そのままを摘録し、読者の参考に供することにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらため、一部ひらがなになおした)
「森村の家は、二百年以来、江戸における諸大名に出入りし、表方においては馬具、鎧、兜などの御用を勤め、奥向においては袋物、鼈甲、髪飾り類を納むるのが、その営業でありましたが、安政年間、ペルリ(注・ペリー)が渡来して、横浜に開港場ができたという噂を聞き、一日横浜見物に出かけたところが、波打ち際に漁師の家が数軒建っているばかりで、地面は何程でもつかわすから、すすんで商店を開けよという申し渡しがあっても、何人も家を建てる者がないので、政府はまず、地所割りを定めて、三井その他の商人に対して、それぞれ開店を命じたので、これらの連中は板囲いをなし、わずかに体裁をつくろっていたその中に、ささやかなる荒物屋が一、二軒あったので、試みにその店に立ち寄ってみると、当時西洋の軍艦から、ボーイなどが盗み出してきたものとおぼしく、古ぼけた兵隊の靴、または古着の羅紗服、ビール瓶、コップなどが並べてあったから、これはおもしろいと思って、これを買い取って江戸に帰り、即日店頭に飾っておいたところが、これがよほど珍しかったとみえ、馬に乗ったお武家さんが、続々来店せられた中に、板垣さんだの、後藤さんなどもあって、そんな方々が、マドロスか何かのはき古した靴を買って、よろこんでこれをはかれたというようなありさまであった。(注・じっさいには板垣退助、後藤象二郎が江戸に出るのは、横浜開港の1859年よりもずっとあとのことであるようだ)
これにおいて、私は時勢にかんがみて唐物屋を開くこととし、金巾(注・かなきん。経糸と緯糸の密度を同等に織った薄地の綿織物)、羅紗などを横浜より仕入れて、これを発売していましたが、手前の家は当時、鉄砲洲にあった奥平家のお出入りなので、唐物をかついで時々同邸にも参りました。
しかるに、奥平家には桑名昇というよほど進歩的の御家老があって、通常ならば手前らはとてもお目通りができぬのに、桑名さんは手前をお座敷に呼んで、じきじきによもやまの話をされた。
その時、まだ江戸に参られたばかりの福澤先生が桑名の家を訪なわれたのを、桑名さんが手前に紹介し、これは福澤という人で蘭学の先生であると申されました。
桑名さんは御家老、先生は奥平家の下役の子息でありますから、由良之助と平右衛門(注・仮名手本忠臣蔵の大星由良之助と足軽の寺岡平右衛門)ほどの違いがあるのだが、桑名さんは先生に対しておおいに敬意を表しておられました。
そうして桑名さんが手前に申すには、お前などはしあわせ者である、よく見ているが宜しい、今に日本も町人の世の中になって、吾々どもは町人の台所から出入りするような時節が来るであろうと申されましたから、手前は、とんでもないことで、そんなことがあるべきはずはない、と言えば、桑名さんはイヤイヤ決してそうでないとて、インドにおけるイギリスの商人の東インド会社やら、諸国の商人が寄り集まって、ついに独立するにいたったアメリカ合衆国の実例などをあげて、日本も今に商人の世となることであろうから、お前たちも大いに勉強するが宜しい、日本の商人も蒸気船に乗って外国に出かけ、外国人と商売して金儲けをなせば、商人の格式も大いに進んで、吾々どもがその台所より出入りするようになるのであると説明せられたので、いまだ二十歳くらいで血気盛んであった手前は、この話を聞いて非常に面白く感じ、お武家さんが商人の台所から出入りするような時節が来たらさぞ面白いことであろうと、この一言が非常に手前の神経を刺激し、他日、外国貿易を始める動機となったのであります。」
「箒のあと」207 森村翁懐旧談(上)
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