二百五 高田慎蔵氏の風骨(下巻206頁)
明治の初期から大正末期にいたるまで陸軍御用達の貿易商を営んで内外の信用を博し、朝野(注・政府と民間)の各方面に知人多く、書画骨董を好んで、おりおり風雅の会合を催すなど、東京の紳商のなかにあって一種異様な風骨を備えていた高田慎蔵氏は、佐渡国相川の土着士族のせがれである。
佐渡は幕府の直轄なので、王政維新の際に、幕臣で後年茨城県知事などを勤めた中山信安が、同地の士族の一団を率いて会津軍に加勢しようとしたとき、高田氏はいまだ十四、五歳の少年ながらその徒党に加わって出陣しようとした。しかしその前に裏切り者が現れて、結局これを果たすことはできなかったが、士族の子として一種の気概をたたえていたことは、後年に東都の交際裡に立つにおよんで自然とその素養をうかがうに足るものがあった。
明治二(1869)年に、井上勝子爵が、イギリス人のガール(注・鉱山技師エラスマス・ガワ―のことだと思われる)という鉱山技師を従えて佐渡を視察したとき、高田氏はその才気を認められ、いろいろと立身出世上の助言を得、明治三年に上京してドイツ商人が経営していた商店(注・アーレンス商会)に住み込んだ。
明治十二(1879)年に諸官庁が西洋人から品物を買わないという布達を出したので、そのドイツ商店(注・アーレンス商会ではなくベア商会に当時勤めていた)は表面上、高田商会の名前で陸軍御用達を勤めることになり、同二十二年には、高田氏が完全に私有するにいたり、以来、高田組の名声は旭日沖天の勢いを呈するにいたったのである。
高田氏はもともと左利き(注・酒好き)であったが、とりわけ洋酒を好み、湯島にあった氏の西洋館の地下の洋酒倉には葡萄酒その他各種の洋酒類が蓄えられ、およそ百年くらい前からの生産年別に品等を分け、室内の温度をいつも六十度(注・華氏60度は摂氏約15.6度)くらいにして保存するというたいへんな手間ひまかけた入れこみようだった。
かの世界大戦中にフランスからの葡萄酒輸出が途絶したとき、「東洋でボルドー産の古葡萄酒を保蔵するのは、ただ我が酒倉のみなり」と自慢して、各国大公使蓮を羨ましがらせたのは有名な逸話だ。
高田氏はとくに学問をした様子もないが、佐佐木信綱氏について晩学ながらも和歌を学び、また座談に長じ、ときどき頓智をひらめかすこともあった。
日露戦争中、曾禰子爵(注・曾禰荒助)が大蔵大臣であったが、日本で金貨の不足が憂慮されたとき、奥州気仙山に金脈があるという風説を信じて日本に大金山があると発表したことがあった。それは、たちまち外国に電報で伝えられ評判になったが、農商務省の技師たちがまじめに事実を否認したため、曾禰子爵は激怒して金鉱の管轄を農商務省から大蔵省に移した。
この時山県公爵は、曾禰子爵が気仙の金鉱熱に浮かされているのを危ぶみ、ある宴席でそのことを語りはじめたところ、高田氏は左右を見回し、声高に「気仙に金鉱あるのは事実です、このことについては、いずれ明日参上して、委細申し上げます」といって、翌日山県公爵を訪問し、「今や大戦中にあたり、海外において日本に金鉱ありという評判があるのは、まことにもっけの幸いである。農商務省の技師が大勢に通じないままに、むやみにこれを否認するのは大馬鹿者である。閣下より、農商務大臣の清浦子爵【のち伯爵】に御沙汰あり、技師たちの主張を取り消させるほうが得策でありましょう」と申し出た。
山県公爵も、いかにももっともであるとして、すぐにこの旨を清浦農相に伝え、金鉱有無論もうやむやのままに立ち消えとなったが、当時外債募集のためにイギリスに出張中だった高橋是清子爵は、この風説が募債の助けになったということである。
この例なども、高田氏の頓才が場合によって縦横に活躍したひとつのあかしとして見られるべきではなかろうか。
高田氏は、中年より思い立って、仏画や、宋、元、ならびに本朝の古画の蒐集をはじめ、下條桂谷画伯を顧問にしてその選別を任せた。そのため、収蔵の富は東都における一方の重鎮たるにいたったが、そのなかに弘法大師筆とされる木筆不動尊の大幅があった。
これは、明治四十一(1908)年に、高田氏が高野山の龍光院で感得した(注・修行して手に入れた)ものなので、信仰と鑑賞の両方の意味を兼ねており、翌明治四十二年から、本郷湯島の自邸で不動祭をとりおこなうことになった。
大正三(1914)年三月二十八日の不動祭は非常に盛大なものであった。当日、各室に陳列されたもののなかには、土佐為継(注・藤原為継)筆の在原行平像、伝信実(注・藤原信実)筆の藤原鎌足像、趙子昂筆の廬同煎茶図、崔白筆の波に群鷺図、渡辺崋山筆の富士山図など、稀代の名品が少なくなかった。
その日主人が短冊にしたためた和歌には、
年ごとの今日の祭にみすがたを 仰げば更に尊かりけり
とあり、また同じく短冊に物された山県含雪公爵の歌は、
かくれゐし高野の奥のみほとけは 世に出でてこそ光ありけれ
というものだった。
そのころの高田氏は、おそらく成功の絶頂期であっただろう。氏の没後まもなく起こった大正十二年の大震火災では湯島の本邸が烏有に帰し、上記の数々の書画を一炬に付して(注・いっきょにふして。全部燃やして)しまったが、氏が生前にこの悲惨を見ることなく亡くなったことは、むしろ幸運であったかもしれない。
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「箒のあと」205 高田慎蔵氏の風骨
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