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二百三  後藤伯と福澤翁(上) (下巻199頁)

 私はここで、後藤象二郎伯爵と福澤先生の交際に関する三宅豹三氏の談話を紹介しようと思う。
 三宅氏は、備後福山は御霊村の名家の生まれで、明治十二(1879)年に出京後、福澤先生の玄関番をふりだしに、あるときは時事新報記者となり、あるときは後藤象二郎伯爵の秘書官となり、またあるときは大河内輝剛氏とともに歌舞伎座の経営にあたるなど、いたるところで愛嬌をふりまいて交わる人々に重宝がられた存在だ。しかし、いわゆる器用貧乏で、とりたてて栄達を見ることはなかった。
 ただ、その人となりがひょうきんで、文筆も達者で、座談に長じており、きわめて愉快な才子肌なので、わたしはもっとも長いあいだ親交を続けた。
 氏は井上角五郎氏の後継者として後藤象二郎伯爵の秘書役となり、伯爵と福澤先生の間の仲介をした関係から、その内情について非常によく通じていたので、氏の談話の中から、もっとも興味深い部分を抜粋して次に掲載することにしよう。(注・原文通りだが、漢字をひらがなになおした部分がある)

「僕は明治十二年に上京して、福澤先生の玄関番となったが、これは僕の兄が、寺島宗則伯の家庭教師をしていたので、兄が伯より福澤先生に頼み込んで、僕を玄関番に住み込ませたのである。
 ところが明治十七年、金玉均が朝鮮事変で日本に逃げてきたとき、前々よりの関係で、福澤先生はおおいに金玉均を庇護し、朝鮮の改革をなすには、金玉均が必要だと言っておられた(注・20「金玉均庇護」に関連記事あり)。
 このころは、袁世凱が朝鮮で権力を振り回している最中なので、王妃閔氏(注・
妃)は日本にある金玉均がいつ襲来するかもしれぬというので、しきりにこれを袁世凱に訴え、袁世凱はまたこれを李鴻章に言い送って、李鴻章より日本の外務省に突っ込んできた。

 ところで外務省は、当時シナの勢力を怖れて、金玉均を小笠原島に流し、同島の気候が金玉均に相当せぬというので、さらに北海道に移したりなどする間に、福澤先生が暗々裡に金玉均を保護したその心づくしは、実に至れり尽くせりであった。
 しかるに明治二十六年になって、東京駐箚のシナ公使、
方(注・李鴻章の甥で養子。原文では経芳となっている)が後藤象二郎伯と懇意なので、福澤先生は後藤伯を通じて李経方に説き、金玉均は朝鮮を改革するに最も必要なる人物であるから、シナにおいても彼を忌避せず、むしろこれを利用する方が宜しかろうと言わしめたのである。

 ところが李経方は李鴻章の甥であり、かつ歴代シナ公使中もっとも有為の人物であったから、すぐに後藤伯の進言を容れ、そのなかシナに帰って李鴻章を説き、金玉均と直接面会せしむべく内約するに至った。
 かくして、李経方が帰国の途次、まずその郷里なる蕪湖に帰省している間に、多年無聊に苦しんでいた金玉均は、しきりに李鴻章との会見を急ぎ、李経方のあとを追って、まさに上海に赴かんとした。
 一方、王妃の内命を受けた刺客、洪鐘宇(注・ホンジョング。李氏朝鮮末期の高官)は、この機会に乗じてその目的を達せんとし、甘言をもって金玉均に近づいてきた。
 しかるに、これまで王妃が日本に送った刺客は、ただ褒美の金を取り出さんとする者で、真実使命を果たさんとする者なければ、金玉均もまた、これを見透かし、王妃より取り出してきた刺客の金を巻きあげたことさえあり、洪鐘宇もまた、この類ならんと思い、刺客と知りつつ油断していると、洪鐘宇は従来の刺客と違って、思慮周到に計画を進め、金玉均に油断させるため、一時フランスに赴いて、しばらくかの地に滞在したれば、彼が再び日本に帰ってきても、金玉均は彼を疑う心なく、ただ彼が朝鮮服を着け、朝鮮髪を蓄えているのが、少しく変だと言っていただけで、まんまと彼の策戦計画に引っかかり、不用意にも彼とともにシナ行きを企て、最初後藤伯より二千円ばかりの旅費を借用したが、借金払いなどして、わずか二、三百円の旅費をあますに過ぎなかったのを、洪鐘宇は巧みに金玉均に説き、シナに渡れば、朝鮮の志士、尹雄烈(注・ユンウンニョル)などが待ち受けているから、金子の心配は無用なりとて、ついに上海まで同道し、金玉均が眼病を患って進退不自由なるに付け入り、上海の旅館において、ついに彼を銃殺したのである。
 このとき、金玉均の友人らは、屍体を日本に引き取りたいとて奔走したが、時の外務大臣林董伯が、この議を拒み、上海の土地で起こったことに、日本より容喙するのは不条理なりと言い張ったので、屍体はやがて朝鮮に送られ、数個に切断して、各処に曝さるるというがごとき大悲劇が演ぜられたのである。
 しかしこれらの惨状が動機となって、朝鮮に東学党の変乱が起こり、ひいて二十七八年の日清戦争が巻き起こさるるに至ったので、事実においては、金玉均の一死が、日本の世界強国の仲間入りをさせたものだといっても宜しかろうと思う。」


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