二百二 香川皇后宮大夫(下巻196頁)
皇后宮大夫、枢密顧問官、伯爵である香川敬三氏は、大正四(1915)年三月十八日に糖尿病に癰(注・はれもの)を併発し、七十七歳をもってそのもっとも波瀾の多い生涯を終えられた。
伯爵は水戸藩領内の伊勢畑村の郷士である蓮田家に生まれ、同村の神職である鯉沼伊織の養子となり(注・未調査だが養父の名は意信で、伊織は香川自身の過去の名のようだ)、藤田東湖の塾に学んだ。慷慨(注・こうがい。正義にはずれたことに憤るさま)にして気節(注・心意気と節操)あり、当時、天下の風雲がはなはだ急であるの見ておおいに期するところがあり、撃剣を水戸藩の剣客だった松平将監(注・しょうげん。徳川慶喜の異母弟、松平武聰[たけあきら]か?)、大越伊予らに学び、つとに抜群の誉を得た。
かくて、安政の末年、水戸藩に攘夷の密勅がくだるや、伯爵は同志三十七名とともに江戸に出て、一時、身を薩摩藩邸に寄せた。そのとき伯爵は二十歳で、浪人蓮見東太郎と名乗り、維新の大舞台に活躍すべく、すでにその第一歩を踏み出したのである。しかしそのことが世間に洩れ、ほどなくして幕吏に捕らえられ駒込の水戸藩中邸に拘禁されたが、文久三(1863)年の将軍家茂上洛のとき水戸藩主の慶篤(注・水戸徳川藩10代藩主よしあつ)に従って上洛した。ついでその弟である昭武侯が、かわって御所(原文「禁闕」)護衛の任に当たるようになると、伯爵は隊士の列に加わりながら勤王志士と気脈を通じ、薩摩、土佐に往来し、また岩倉村に蟄居中の岩倉公らとも相知るようになった。
その後高野山において義兵を挙げたこともあったが、奥羽征討の事件がおきると、東山道の官軍に加わって東下し、有名な新撰組の隊長である近藤勇を虜にするなど、壮年時代の活躍は実にめざましいものがあった。
伯爵は、上背は五尺(注・一尺は約30センチ)に足らず、矮躯厚肉(注・身長が低くてがっしりしている)で、一見するとその容貌は赤鬼のようであるが、温顔で人とふれあう際には機敏ななかに愛嬌がある。
かつて岩倉大使に随行して欧米に漫遊したとき、英語、フランス語それぞれ百ほどの言葉を暗記しただけで巧みにそれを応用して、用事を済ますのにまったく差し支えがなかったということを見ても、その機転が並ではないことがわかるのである。
人となりは清廉で親切、水戸藩志士の遺族に対しては常に率先して救援の手を差しのべ、その贈位などについて熱心に仲介の労を取ったことなどを見ても、その故旧(注・昔からの知り合い)を大事にする一端を見ることができる。
ふだんはきわめて恪勤(注・かっきん。まじめに職務にあたること)で、ものごとの処理を緻密に行うので、宮廷においてもっとも複雑である皇后宮大夫の職に奉じ、女官たちをじょうずに心服させた。
明治三(1870)年に宮内省にはいってから四十七年のあいだ要職にあり、七十七歳の高齢まで勤続し、正二位勲一等伯爵の地位にのぼった。
薨去の際には特旨で従一位に叙せられたことなどは、水戸藩の出身者としては、藩主徳川公を除いてまったく例をみないことである。
私は伯爵の生前に、しばしば行き来しあったので、伯爵も腹蔵なくその意中を語られたが、「宮内官として長くその職に奉じるためには、きわめて清廉に身を持さなくてはならないし、貨財(注・金銭や物品)からはつとめて遠ざからなければならないので、職務上の交際もあるので、なにやかやと、自分たちは極度の倹約をしないことには借財を余儀なくされる場合もあり、長年、官の道で奔走してきたのに家に余財は残っていない始末である」と述懐されたこともあった。伯爵は久しく要職にありながら、その身に問題が及ぶことがまったくなかったのは、なるほど、いわれのないことではなかったのだと思われた。
また、伯爵の老練で用意周到なことの一例は、明治四十四、五(1911~12)年ごろ、私の一番町宅に故徳川昭武侯爵一家を招請したとき、伯爵および令嬢しほ子嬢(注・香川志保子、権掌侍取扱)も来会されたが、この日伯爵は、一時間もはやく来宅され、みずから席順までも指図し、自身は伯爵でありながら徳川家連枝の末座に列し、「自分等の伯爵は、お大名のそれとは違いますから、今夕はここに着席します」といって、席のことも万端ぬかりなく整えられたことである。女官らとの交渉ごとが多い皇后宮大夫の職にある者は、このような緻密な用意がなくては勤まらないものなのだろうと思われた。
香川伯爵の葬儀は四月二十五日に行われた。遺言に従い、当日午前九時から十二時までのあいだ、紀尾井町の本邸で告別式が行われた後、青山墓地で埋葬式を挙げられた。
自宅で告別式を行うことは、このころから流行しはじめたことで、一、二の前例があるかも知れないが、今回のことがほとんど嚆矢に近いものだと思う。
明治三十年代までは、一般の葬儀では葬列を立て、会葬者が寺院または墓地まで送棺するのが常だったが、やがてこの会葬のやり方をしなくなると、今度は寺院か斎場で法要を営み、会葬者を長時間参列させるという場合が多くなった。しかし香川伯爵が遺言で今回のような告別式の方式を採用されたのは、長く宮廷にあって各種の儀礼に熟達し、かつ普段から非常に思いやりの深い人だったので、死後に友人を煩わすことをおそれてこの葬儀法を実行させたのに違いない。
死後のことに関してまでその用意が周到だったことからも、おのずからその平常を見ることができるのである。
思うに、伯爵が岩倉具視公と意気投合し、公からもっとも深く信任されたのは、性格が酷似していたために違いなく、伯爵のような人は明治時代における能吏のなかの巨擘(注・きょはく。親指、転じてすぐれた人)として、おおいに尊敬し値する一人であろうと思う。
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