二百 大隈侯懐旧談(下)(下巻188頁)
大隈侯爵は明治十四(1881)年の政変において、いわゆる「敗軍の将」であったためか、当時の状況については前項(注・199)に述べた程度であまり多くを語らなかったが、福澤先生との交際に関しては、さらに次のような懐旧談を続けた。(注・一部わかりやすい表現になおした)
「吾輩がはじめて福澤先生を知ったのは明治四年の暮れか、五年の初めか、とにかく、あの廃藩置県が実施されたときであったと思う。一度知り合ってからは非常に懇意になって、先生が吾輩のところに来ると、家内どもまで一緒になって夕食を共にすることもあった。
先生は酒が強く食事が長いから、食っては話し、食っては話しと、だんだんと夜が更けてしまい、膳を片づけようとすると、まだまだという風で、家内を相手にして酒を飲みながら、いつまでも話をするのが常例だった。政治上の秘密談になると、この家の奥にある一室【母屋の背面を指して】で、他人を交えず、家内が酌をしながら話したのであるが、先生は吾輩から見れば先輩で、吾輩も先生によっていろいろと利益を得たことがある。
たとえば、この早稲田の学校ができたのも、吾輩が先生と交際していたからだと言ってもよいのである。
もっとも吾輩は、もともと教育には深い興味を持っていて、長崎にいたころから、いささかながら私立学校を開き人に教えていたこともある。しかし吾輩は、福澤先生のように学問をしている暇がなく、ちょうど今日の犬養や尾崎のように、政論に火花を散らして奔走していたから、まず不良少年仲間だったといってよいだろう。それで、自分は学問はしないが教育には興味を持っていたので、いつも人に向かって、福澤先生のような人は、自分の学問を人に伝えるという教育の仕方だが、吾輩は自分に学問がないから、学者を集めて生徒を教育させるというやり方で、方法は少し違うけれども、学校教育を行うという点についてはまったく同一軌道にあるのだ、と言っていたこともあるのである。
ところで吾輩が明治十四年に政府を退くとすぐに、雉子橋の屋敷を引き払って、この早稲田に引っ込んだが、これに先立つ明治四、五年ごろに、木戸などと一緒にこの辺を散歩していると、植木屋が大きな石灯籠を運んでいたので、これはどこの屋敷かと聞くと、讃州高松と井伊掃部頭の下屋敷であるが、これから庭前の樹木を伐り払って薪にするのだという。それはあまりにも惜しいものだと言って、五万坪ばかりあるのを一万円で買うことにした。
今日より考えてみれば、非常に安いものだったが、当時においては、銭を出して大きな屋敷を買う者はなく、例えば今日第一銀行になっている三井の地所なども、当時井上侯爵が田舎住まいを嫌って、都会の真ん中に屋敷がほしいというので、このころは誰の屋敷だったのやら、園内に池などがあり、約二万坪ほどある地面を井上にやったところ、井上が、蚊が多くて困るからこんな場所は御免したいと言いだした。そのとき三井の三野村利左衛門が、井上さんが御不用ならば、私が是非頂戴したいと言って、わずかな代価で政府から払い下げられた次第であるので、吾輩が早稲田を買ったのは当時においては非常な奮発であったのである。
そしてこの五万坪に、さらに二万坪ばかりを買い足して、今日では早稲田の学校が三万坪、吾輩の屋敷が四万坪程度になっている。
福澤先生は、かの正金銀行を創立するために、大きな骨折りをし、吾輩にもいろいろ相談があったが、これは堀越角次郎という甲州出の爺【おやじ】が、無学ではあったが一見識持っていたので、先生は非常に彼を信用し、彼が横浜に正金銀行を立てようとするのを後援し、吾輩にも助力を乞われたので、ついにこれを認可することになったのである。
それから先生はまた、後藤象二郎と懇意で、後藤の高島炭鉱処分について、先生が非常に尽力した。先生はあの炭鉱を岩崎弥太郎に買わせようと言い出し、岩崎を吾輩の家に呼びつけ、先生も列席のうえで、ぜひとも買ってやれと談判したところ、当時の後藤の借金は、百万円と言っていたのがだんだん増加し、百三十万円ほどになったので、岩崎は容易にはこれを承知しなかった。岩崎は後藤を罵り、『アンナ尻抜けな男は信用ができないから、一切相手にいたさぬ』、と言うのを、ふたりでようやく説きつけて、とうとう三菱に高島炭鉱を買わせたのだ。これは、いやいやながら引き受けたものだったが、今日では、むしろ三菱の金穴(注・ドル箱)となっただろうと思う。考えてみれば、人間の知恵など浅はかなもので、あとから先見だのなんの、と言っているが、その実はたいてい、まぐれ当たりに過ぎないのである云々。」
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