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百九十九  大隈侯懐旧談(上)(下巻185頁)

 大正の初年に、私が福澤先生の事歴を、先生と縁故ある長老の在世中に聴取しておこうと思い立ち、それから約二年間にわたり探問した人々が三、四十名に達したことは前項でも陳述したとおりである。
 その大隈重信侯爵の談話については、「大隈侯の福澤談」として、すでに一部を掲載した(注・97「大隈の福澤評」を参照のこと)が、このときの大隈侯爵と私の会見は、ほとんど一時間半にわたったので、侯爵の懐旧談はほかにもいろいろある。
 そこでまず、私が大隈侯爵を訪問したときの所見を述べ、その次に談話について述べることにしよう。
 私が大隈侯爵を早稲田邸に訪問したのは、大正二(1913)年の五月ごろだったと思う。前もって約束していた午前十時ごろに侯爵邸を訪問すると、その日はほかに訪問客もなく、侯爵が母屋から庭前南方に張り出した温室におられ、今を盛りに咲き乱れた各種の蘭その他の南洋植物香気の中を、例の松葉づえを突きながらゆっくり歩いておられた。
 私が温室のなかに歩み入るのを前から見て手を挙げてそれを押しとどめ、やがて近づいて挨拶され、侯爵はニコニコして私を歓迎してくださった。
 それというのは、私はこれに先立つこと数回侯爵と会見しており、数年前に前妻が死去したあと、音羽護国寺の境内でたまたま墓参をされていた侯爵に邂逅ししばらく立ち話をしたことなどもあったからである。侯爵はこの日は、いかにも打ちくつろいだ態度で、私を広々とした母屋の応接室に導きいれ、長卓をはさんでふたり椅子に腰かけた。
 大隈侯爵という人はもともと意思の強い人でそれが面貌にも現れていた。頬骨が高く、目が少し窪み、大きな一文字の口を結んだところは、いかにも確固たる決意をあらわしている。ある人が、「侯爵が衆人稠座(注・大勢の人が座っているようす)の中に入ってきて、中央の椅子に腰をおろすときは、大鷲が岩石の上にとまって、傲然と四方を睥睨するような風采がある」と言ったそうだが、それがいかにも適評だと思われた。
 侯爵は維新後、薩長藩閥の群雄割拠の中にあって、そっくり大久保の後継者になり、明治十四(1881)年の下野ののちも屈するところはまったくなく闘志満々でその一生を貫いた、信念強固の、他人の追随を許さない人である。
 かつ、日本の政治家としてはまれにみる雄弁家で、人のことを聴くというよりは、もっぱら話す一方ではあったが、博覧強記で、いつの間にか外国のことも研究していた。常に説法者の立場に立っていたあたりは、明治の功臣の中にあっては一種出色の大政治家であると言わざるを得ない。
 大隈侯爵の談話では、私が探問した福澤先生の事歴から始まり、前項に述べた先生の所感のほかに、さらに次のような話があった。(注・わかりやすい表現に、一部変えてある)

「明治十一年大久保が亡くなり、吾輩がその後を引き受けたようなことになった。さしあたり、政治の上で大改革を行わなくてはならないことが数々あったが、このとき焦眉の急を要したのは、西南戦争のときに、薩摩の中で西郷にくみしなかった一派を、当時の政府が優遇し、一時東京に連れてきて、その人たちに巡査の職を授け、警視庁の配下に付属したのであるが、この巡査たちが、戦争で功労があったということを鼻にかけ、時として上司の命令に服従しない状態であったため、できるだけ早くこれを廃止したいということだった。もともと情実によって起こったものだったので、廃止するには手加減が必要だった。そこで鎮撫の意味で、大山(注・巌)大将を引っ張り出したり、山県公爵の声援を借りるなどして、ようやくこの巡査を押さえつけたのである。

 しかしこれなどはほんの小細工で、政局の大勢を見渡すと薩長が相対峙して互いに牽制し合っているので、なにも改革を施すことができない状態だった。そこで吾輩は福澤先生と協議のうえ、伊藤、井上の二人を加えて、ここに根本的改革の方針を立て、国会を開設し、与論の力で、頑固連の鉾先をくじこうという決意をしたのである。
 そのとき吾輩は、福澤先生に是非とも内閣の一員になってもらいたいと勧誘したが、先生はきっぱりとこれを断り、政治は乃公(注・おれ)の長所でないから、君たちがこれに当たるがよろしい、乃公は言論をもって一般民衆に政治的教育をなし、向鉢巻で君たちを声援するから、君たちも一生懸命で政治上の改良進歩を謀られたい、と言われたので、吾輩はその後先生に向かって、内閣入りを勧めないことにしたのである。」


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