箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

百九十八  花柳国の女将軍(下巻182頁)

 料理茶屋、待合の散在する区域のことを花柳国と呼んだり、その料理茶屋、待合を主宰する主婦のことを女将おかみと呼んだりすることの当否はさて措くとして、料理茶屋、待合の繁昌が女将の手腕いかんにかかっているということは争うべくもない事実である。
 
さて、女将の中の大御所とも言うべきは、明治初期から中期まで、おおいにその異彩を放った横浜富貴楼のお倉であろう。
 彼女の一代記は長くなるので省くが、その全盛期に、伊藤、井上、大隈、山県などの大官を手玉に取り、政府の属僚役人(注・小役人)たちがその鼻息をうかがったというその辣腕は、時代が時代だけに、のちの人にはまねできないことだった。また、彼女が横浜にありながら東京の各花柳国をも属国扱いにして、飛ぶ鳥を落とすような将軍ぶりを発揮したのは、いかにも豪勢なことだった。
 これに次ぐ者としては、烏森に濱野屋の女将であるお濱がいた。その勢力は、比較的小範囲に限られたとはいえ、その人となりは、すこぶる侠気に富み、持って生まれた負けじ魂が彼女を一方の重鎮たらしめた。
 このふたりに並ぶ大女将としては、その気性が協和的で、ある種の脱俗した偉大さを持つ、築地の新喜楽の第一世、伊藤きんがいた。きんは、日本橋区旅籠町新道の町家に生まれたが、家運が傾いたのち、その身を吉原の稲本楼に沈め、源氏名を鳰鳥におとりといった。小づくりで格別美人というわけではないが、元気で才子肌なので、福地桜痴、沖守固(注・おきもりかた)、中井桜洲(注・中井弘)らの贔屓を受けた。出廓後、日本橋区芳町に喜楽という待合を開き、その後築地に移り新喜楽という料理屋を始めた。東郷大将と同年の丙午生まれで商売運があると自負していたとおり、広く大官通人たちに愛された。ことに伊藤、井上や、大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)男爵らの引き立てがあり、伊藤公爵の朝鮮統監時代にはわざわざ朝鮮まで出かけたことなどもある。
 晩年には、永平寺の森田悟由禅師に帰依し、海千山千の老婆と大悟徹底した老禅師とが相対して笑語するところは、一休和尚と幻太夫(注・地獄太夫の間違いか?)との出会いのようであり、近世まれに見る図柄だった。
 またこの老婆には、器量よしの芸人を後援するという道楽があった。伊井蓉峰を新派俳優の頭領分にしたのも、都一中を一流の家元に祭りあげたのも、それにあたる。
 しかもそのようなことを人に誇ることなく、ただ当然のことをしているように平然としていたところが凡婦の及ばない特別な点だった。大正四(1915)年四月十七日、七十歳で花見がてらの冥途行きをしたのは、いかにも彼女にふさわしい臨終といえた。
 さて同じ築地には、これもまた相当にすごかった瓢家の女将、お酉がいた。お酉は、横浜富貴楼の出身で明治中期には立派な女将ぶりを発揮していた。政界実業界の大家を引き寄せ、新橋の待合のなかではっきり一頭地を抜いていた。
 このほかの待合の先覚者としては、長谷川のお鈴というのがいた。彼女が出雲橋近くに開店したころは、諸官省の役人や地方長官などが新橋での一流の客で、争って長谷川の格子をくぐったものだ。彼女のことをママと呼ぶ者が多かった。

 このようにして新橋村が東京第一の花柳国になると、女将の頭目は目に見えて増えていったが、その中で、十五のお酌のときからこの地に現れ、ついには田川の女将となって元気と愛嬌と咳払いでもって六十年一日のごとくにその存在を示している石原半女があることは、新橋七不思議もし、あったらだがの随一に数えられることだろう。
 その他一時期、雨後のたけのこのように続出した茶屋、待合には、早かったところで花月、蜂龍、花屋など、後進では山口、河内屋、金田中、きん楽などがある。
 その中には、相当に人に知られた女将もいたが、年のわりに早くからその貫録をあらわして八方無敵、ぬらりくらりとしてこの世界の成功者となった、いわゆる「ギンミを取った」のは、木挽町田中家のおたけだろう。 

 さて新橋を離れ、その他の花柳国を見れば、浜町の料理屋に岡田屋おきんというのがいた。彼女は、持って生まれた愛嬌に加え、こんこんと尽きないお世辞でいかなる客といえども満足しないことはないという特長があったために、世に世辞きんの名前さえも残している。
 また同方面の待合である弥生の女将は、同じくお世辞上手な中にもある種の侠気をたくわえ、時に鼻っ柱が強い江戸の気性を見せ、花柳界の紛争の仲介役に立っていた。もしくは、芸人の声援にも乗り出し、清元お葉が困窮しきったときには一時、彼女を自分の家に引き取ったこともある。江戸気質の女将の見本は、ひとり彼女の中に見られたような心持ちがしたものである。
 以上が、明治初期からの約五、六十年にわたる東京横浜の花柳国の女将一覧記である。


 彼女たちは、いずれもが海千山千の女傑であり、職業の貴賤、硬軟、軽重こそあれ、今日の社会事業に関係して「なになに会長」などと称される、かのインテリ女性たちと比較しても、その力量、機略ですこしも遜色がないばかりか、ときには大政治家のあいだに介在し、暗中飛躍の媒体になろうという者まであったのである。
 今後の花柳国の消長はいかがなものになるであろう。後継の女将に、前記のような豪傑が現れるだろうか。社会風俗の変遷を注意して見る者は、興味を持ってそれを観察する価値があるのではないかと思う。



【箒のあと(全)・
目次へ】【箒のあと・次ページへ