百九十七 「がらくたかご」著述の由来(下巻178頁)
(注・じっさいには「我楽多籠」と漢字の題名で出版された)
私が初めて自著を出版したのは、明治十七(1884)年ごろ時事新報の記者時代に書いた「日本人種改良論」というものだった。木村摂津守の著書以外に序文を書いたことがなかったという福澤先生が特に序文を書いてくださったのは、私にとり非常な光栄であった。
次に明治十八(1885)年ごろ「拝金宗」という題名で、当時、世間でようやく始まりつつあった実業論を公表した。これはおおいに時流に乗り発行部数が非常に多かったので、続編も刊行することになった。
また同十九年には、演劇改良の見地から「梨園の曙」という西洋劇の翻訳書を発行し、明治二十二年には、欧米商業視察の旅を終えて帰国するとすぐに、まず「英国風俗鑑」を出版し、次いで「商政一新」を著述した。この「商政一新」により、私は井上(注・井上馨)侯爵の知るところとなり、その紹介によって、とうとう三井に入社することになったのである。
こうして明治二十四(1991)年に実業界にはいってからは、日常の業務に追われて、筆硯に親しむ余暇がなく、実業生活二十一年間においては一度も著述を刊行しなかったが、明治四十五(1912)年から閑散の身となったので、「東都茶会記」を執筆するかたわら、大正三(1914)年十月に「がらくたかご」【我楽多籠】と題する趣味的な著作を発刊した。なぜこのような著作を出したのかといえば、私はもともと多趣味な人間で、世にいう八百屋主義というのだろうか、間口が広くて奥行きは浅いが、数多い芸術を総合してみると、その趣味には共通点があり、それほど深入りしなくてもかなりそれらを楽しむことができたからである。
さて、人は日々さまざまな場所でさまざまな場面に出合うものだが、そこで出合った事柄に興味を持つか持たないかでは、怡楽(注・いらく。喜び楽しみ)の分量に、大きな違いがあるだろう。
たとえば、義太夫を語る友達に招かれて「親類だけに二段聞き」する(注・義理のつきあい)というような場合に、音曲の心得があれば、下手は下手なりに面白く、上手は上手ながらに聞き甲斐があって、どちらも怡楽の種になるものである。
しかし音曲のたしなみがまったくないのに義太夫を聞かされる人の場合は、たしなみがないがために何時間かの不愉快を我慢しなければならない。
つまり、この両者のあいだには、生涯を通じて怡楽の分量に大損益があることになる。
私は前にも述べたように他方面に多趣味な性質なので、自分で考えても、人一倍怡楽が多いのではないかと思っている。そしてこの怡楽を、なるべく広く世間一般の人に伝えることが仲間に対する当然の義務だと考えたのである。私がなんらかの動機から、それぞれの趣味の境涯にはいりだんだんと研究していくに従い、その趣味が次第に変化しまた向上していく体験談を著述したのが、この「がらくたかご」なのである。
「がらくたかご」には、詩、歌、書、画、茶の湯、道具、建築、築庭、能楽、絃曲の十種を盛り込んだ。本来、東洋の芸術には、これらすべてに通じる共通点があるのである。昔、唐の張旭は、じょうずに剣を使う者を見てたちまちにして書道を悟ったということだが、これはさもありそうなことである。
どのような芸術でも、究極に至ると、禅学でいうところの打成一片、物我相忘、万里一条鉄といった境涯に帰着するもので、芸術でも、その点に達すると渾然として玉のごとく、巧を求めずして自然と底光りが出てくるものである。
古人が、「道なり、技より進めり(注・荘子のなかの包丁の言葉「わたしの好きなのは、技術を越えたところにある道だ」のこと)」と言ったのは、すなわちそのことで、いろいろな芸術を総合してみると、たとえ究極に達していなくても、その行く先を想像することは難しくないので、私などももちろん深奥なる妙味を語ることはできないにしても、それまでに自得しただけを発表し同好者とともにこれを楽しもうとして、この「がらくたかご」を著述した次第である。
この本を発刊にするとすぐに、元老のなかでもっとも多趣味であった山県含雪公爵(注・山県有朋)に一冊呈上しその品評を願い出た。ほどなく公爵からいただいた謝状は次のようなものだった。
寒威日に相加はり候処、老兄万福慶賀、扨て先日は貴著我楽多籠御恵贈を忝(注・かたじけのう)し深謝、日夕一読相試み候処、眼識超群円満にして勁健、有急湍(注・早瀬) 有緩流、不能措巻候、拙詠一首
墨の香も高くかをれり楽みの心にあまる筆のすさひは
供一覧候、年内余日無之、来陽緩々可期面唔草々不尽
十二月十七日 古稀庵老主朋
箒庵宗匠坐下
山県公爵の多趣味といえば、その種類が十二、三種にも達していることは、昭和七年の公爵の十周年忌辰(注・命日)に当たって私が東京中央放送局から放送したことがあるから、追って後段に陳述することにしよう(注・「箒のあと」のなかでは記述されていない)。
私が以上のような十種の芸術について私の体験談を発表したのは、大正三(1914)年五十四歳の時なので、それから昭和七(1932)年にいたるまでには実に十九年経過し、私の趣味の経験もむしろ後半生のほうが潤沢であるので、今後また所感を発表して、同好者の一粲を博する(注・謙遜の意味で「お笑い草となる」の意)ことにしよう。
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