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百九十五  荘田と三菱(下巻171頁)

 荘田平五郎氏には一時期三菱の智嚢(注・知恵袋)とさえ謳われた時代があった。
 氏は九州の杵築藩士で、維新前に同藩の留学生として上京後、慶應義塾にはいり、卒業後は義塾または他校で教鞭をとったこともあった。
 明治八(1875)年に三菱汽船会社に入社し、おおいにその手腕を振るった。
 福澤先生は、氏が在塾中に、きちんとした袴をはき、一挙一動がいかにも几帳面であったことを称揚して乱暴書生に対する教訓としたほどだった。
 氏と三菱との関係について氏が私に語った経歴談の中で、氏は次のようなことを言っている。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、内容も若干わかりやすい表現になおした)

「私は明治八年に三菱汽船会社に雇われた。三菱は、明治六年の佐賀の乱で政府の海運御用を勤め、翌七年に台湾征討の運送の仕事を引き受けた。
 それ以前には、大蔵省内に蕃地事務局というものがあって、P&O会社(注・Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)、およびパシフィック(原文「パシフヰツク」)汽船会社(注・パシフィック・メイル社か?)から、千トン内外の機先七艘を買い入れた。台湾事件が終わったあと、それを三菱に貸し下げることになったので、三菱はその船を使って上海への航路を開いた。そのときの事務上、外国人に接触する必要が生じたので、英学書生を雇い入れることになり、かの浅田正文などもそのとき雇い入れられた一人であった。
 もともと、この汽船貸し下げのことは大久保利通卿の発議であるそうだが、当時、日本の海運は、第一に政府が担当するか、第二に民間に委任するか、第三に民間の当業者を保護するかの三策しかなかったのである。
 大久保卿は、その第三策を取り、三菱の上海航路を補助するにいたったので私はこのとき三菱に入社したのである。
 その口入れをしてくれたのは豊川良平君で、福澤先生にはご相談はしたが、入社については先生とはなんら関係もなかったのである。
 福澤先生と岩崎弥太郎との交際は明治十三(1880)年ごろから始まったのであるが、先生は、贔屓役者の後藤象二郎伯爵のことについて岩崎と面談する必要があり、このころから交際を開かれたのだと思う。
 その仔細は、後藤伯爵が高島炭鉱を引き受けて大借金に苦しんでいたので、これを岩崎に買入れさせようという案件であった。この高島炭鉱というのは、肥前鍋島の領分で、かの英国人グラヴァ―(原文「グラパ」)と鍋島家が共同で掘り始めたもので、後年にいたっては、ほとんどグラヴァ―ひとりの所有物になっていた。
 しかるに明治初年、後藤伯爵が政府と意見を異にして民間に下り、蓬莱橋ぎわに蓬莱社という商館をたてられたとき、そのころの日本の工業法によると、日本の鉱山は外国人が所有することができないというので、政府がグラヴァ―から高島炭鉱を買い上げたのを、後藤伯爵がさらに政府から買収したのである。
 このときの金主になったのは、横浜の英一番ジャーディン・マセソン(原文「ヂャーヂンマヂソン」)で、ジャーディンは金主となるかわりに炭鉱の機械一切をその手で売り込み、石炭の売却もまたその手を経るのであるから、こちらのほうは儲かる一方であるが、炭鉱はだんだん採掘費用がかさみ、とうとう非常に大きな損失を招き、明治十二、三(
1879
80)年ごろにおける後藤伯爵は実に窮迫の極点に達し、借金のために政治上の働きが束縛されるありさまになった。
 そのとき、後藤伯爵びいきの福澤先生はこれを見るに忍びず、岩崎弥太郎に、石炭は三菱でも入用だろうから、ぜひとも高島を買い取ってやれと説きつけたが、弥太郎は容易にはそれに応ぜず、明治十四(1881)年の春にいたり、ようやく相談がまとまったのである。
 だいたい三菱という会社は、岩崎弥太郎と、川田小一郎と、石川七財の三人の合作で、一時は三川商会といっていたこともある。川田と石川の川と、もうひとつはどういうわけで三川となったのか、それはわからないが、川田は御承知のとおりの才気ある人物で、外交のことに当たり、石川は堅実な武士気質の人で、内部の仕事に任じた。
 明治十一、二年ごろ、石川は函館にいて北海道の汽船業務にあたり、川田は大阪で関西方面の総取締をしていた。北海道から大阪、大阪から下関を経て北海道というように、北と西との航海業を始めたところ、最初は費用が多くかかり運賃が高くなったので、渋沢、益田などが帆船会社というものを興し、北海道の交通をはじめたが、明治十六(1883)年になって、品川弥二郎子爵が共同運輸会社を作り、帆船会社もそれに合流して大活躍を始めたので、そこから三菱と共同運輸との大競争が起こったのである。この両者が明治十八(1885)年に合併して、日本郵船会社ができあがったのである云々。」

以上、荘田平五郎氏の談話は、郵船会社建設以降のことにもわたっているが、今は荘田氏が三菱に入社した経緯だけにとどめ、その他は省くことにしたい。


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