百九十四 山本伯の福澤談(下)(下巻168頁)
前項(注・193「山本権兵衛伯爵の福澤談(上)」)のとおり、山本(注・権兵衛)伯爵は福澤先生に対して自己の海軍改革案主張に関する談話を進め、ひきつづき次のように述べられたということである。
「さて自分の提出した海軍改革案を西郷(注・従道)海軍大臣が内閣会議に提出したところが、議論百出の末、閣僚中より委員を選定することとなり、山県、伊藤、井上その他の先輩がこれに当たり、自分がその説明を引き受けてついに本案成立したので、この海軍をもってほどなく日清戦争に当たり、実験上さらにまた各般の改革を施した次第を述べ、なお今後の方針についても詳細説明するところがあったので、福澤先生はおおいに満足して今度は反対に自身の来歴を語り、『俺は蘭学を修めて西洋実学の真価を知り、無遠慮に漢学者どもを罵ったので、維新前にあっても相当危険なる場合に遭遇したが、維新後にいたっては、さらにその危険を増し、いつ暗殺せらるるかもしれぬので、万一の場合に逃げ込むべく、居間のストーヴの下に逃げ道をつくったこともあった。されば一方にはおおいに人心を刺激して西洋文明の方向に向かわしめんとし、あるいは嚇し、あるいは嘲り、その論鋒があまりに過激にわたったかと思えば、今度はにわかにこれを緩和し、座を見て法を説くの筆法(注・相手によって説明の方法を変える方法)を用いたれば、福澤には一定の論旨なく、飄々として変転するものだなどと世間よりさまざまの誤解を受けたが、その実、あまり一方に熱中すれば、その身を危うする惧(注・おそれ)があったからである』という苦心談もあり、また『日本の発達が、最初は非常に気遣われたが、日本国民中には相当気力ある者もあって、俺が心配したよりも存外の好結果をきたし、国運も次第に進歩してきたが、前途を見れは、なおさまざまの困難が横たわっているので、日夜苦慮しているのである』というような所見をも述べられ、双方の意気が非常によく投合したので先生もたいそう満足せられ、やがて昼食にとて自分を案内せられた座敷は八畳敷ばかりで、片隅に引っ込んだ床になにやら掛物がかかっていた。
かくて先生の私に対する挙動は、初めより胸襟をひらいて、いさかか包み隠すところなく、食後もまた引き続き、さまざまの談話にはいった。
さて自分は従来、勝安房、西郷隆盛、同従道、大久保利通、伊藤博文などいう人物に面会しているが、考えてみれば、これらの人々のなかで福澤先生ほど大きく腹心を開いて人に接し、子供のごとき無邪気さをもって初対面よりあたかも古き友達に対するがごとく彼我の界を撤去して、愉快に語らるる雅量を持っている人に会ったことがない。
自分が大西郷より添書をもらって勝安房を訪ねたとき、まずどんな人物かと面会してみれば、小づくりな医者のような容体で、たばこ入れを提げて、ひょこひょこと現れ出で、なんとやら軽々しい挙動で、これが勝先生かと思われるようであったが、ただ目がぎょろぎょろとしているところが凡人と思われず、自分に向かってしきりに薩摩人は乱暴であるから、よほど注意しなくてはならぬと教訓を与えてくれましたが、しかし初めより人を呑んでかかって、禅宗流に、いわゆる一喝を喰わせようというやり口であった。
また西郷従道という人は、なかなか真似のできないよいところがあった人で、松方内閣が選挙干渉で、どこまでも押し通そうという場合に、前日までその評議にあずかって格別異存もなかったのに、その翌日の内閣閣議においては、彼がひとり立ち上がって、『かようなことで、お上に御迷惑をかけては重々相すまぬ訳であるから、この内閣は断然明け渡そうではないか』と切って出たので、高島鞆之助やら、その他薩摩の連中等は、あまりに突飛なるに驚いて、かれこれ異存も申し述べたが、西郷はどこまでも例の調子で、この連中を説き伏せてしまった。彼はよく、窮して通ずるの呼吸を解し、いよいよという場合には、実に俺が悪かったというように、なんらの執着もなく手のひらをかえすように翻然と態度を変えてしまうところが彼の得意で、これは容易に真似のできない芸当である。
兄の隆盛などは、その徳をもって人を服するという特長はあったが、弟のごとく翻然と態度を新たにする禅僧じみた真似はできない人であった。
これらの豪傑は、いずれも得難い人物であるが、福澤先生は学者でもあり、かつ非常に大きい人物で、自分がこれまで接触した偉人中の偉人というべき者であろうと思う云々。」
以上は山本伯爵の福澤先生に関する感想談の一部分である。その他の談話は、あまり複雑にわたってしまうので、まずこの辺で打ち切ることにしよう。
「箒のあと」194 山本権兵衛伯爵の福澤談(下)
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