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百九十三 山本伯の福澤談(上)(下巻164頁)

 私は実業界を引退後、余暇に乗じて福澤先生の事歴を先生に縁故ある長老から聴取しておこうと思い、大隈重信、後藤新平、足立寛、中村道太、荘田平五郎、森村市左衛門、阿部泰蔵、北里柴三郎、犬養毅、尾崎行雄ら約三、四十人を歴訪し、各人各様の関係や感想を査問した。これは、それらの人々の在世中になるべく多くの資料を収集するということが主な目的だった。(注・3,40人を歴訪したとあるが、28名分が「福澤先生を語る・諸名士の直話」(昭和9年、岩波書店)にまとめられた。)
 そのような次第で私が山本権兵衛氏を訪問したのは、福澤先生が明治三十二(1899)年に山本伯爵と会談されたあと、ある人に「このごろ、山本権兵衛という人に会うたが、イヤ実に偉い男だ、彼はただの軍人でない、学者だ、全体薩摩の奴には数学のわからぬ男が多いが、山本という男は、徹頭徹尾マセマチカルにできあがっていて、実学に根拠する話のできる男だ」と激賞されたということをきいていたからである。
 また先生が脳溢血のあと、記憶力が衰えて人の名前を思い出せなかった時、「あの薩摩の奴を連れて来い」と言われたので、三田に関係ある薩摩人の名を数えあげるうちに、山本権兵衛という名前が出てくるなり、両手を打ってそれだ、それだと言われたということも聞いていたので、私は伯爵への紹介を園田幸吉男爵に依頼したのである。
 男爵はさっそく快諾され、山本伯爵は厳格な人だから自分自身が訪問して申し入れようといって、わざわざその労をとってくださったので、私は、大正三(1914)年十一月二日午前八時半から山本伯爵の高輪台町邸を訪問することになったのである。
 まず日本客間に通されてみると、床に大正天皇陛下が伯爵の日本海軍建設に関する功労を嘉賞された勅作の七律の宸翰が掛けてあったので、謹んでこれを拝観していると、伯爵は悠然と座につかれ初対面の挨拶を述べられた。
 そして伯爵は、私が訪問した趣旨を聞き終わるとおもむろに口を開き、まず福澤先生の事歴に関する思い出談を語り、だんだん話が進むにつれて日露戦争後にドイツを訪問して皇帝(注・ヴィルヘルム2世)に謁見した顛末から、大正政変の委細にまで及んだが、ここでは福澤先生に関することだけを記しておくことにしよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「自分が福澤先生と会見したのは、明治三十二年であった。会見の手続きは、今なお海軍に勤めておらるる木村摂津守(注・芥舟木村喜毅
)の子息(注・次男の浩吉)が先生の使者として来宅し、福澤先生が閣下に会見したいということでありますが、先生が自分より会見を申し込むというのは甚だ稀なことでありますから、枉げて(注・まげて。無理にでも)ご承諾願いたいということであった。

 よってすぐにこれを承諾すると木村はさらに語を継ぎ、福澤先生は年輩でもあるから、会見の場所等については先生の方にお任せくだされたいというので、それも宜しいと承諾すれば、既に時日の相談をしてきたものをみえ、何日何時より福澤宅にて会見したしとのことであったから、当日朝九時頃、先生の宅を訪問したが、当日の会談は午前九時に始まって正午になってもなお尽きないので、先生は自分に昼食の御馳走をなし、奥さんや令息たちにも紹介せられて、午餐後、午後四時ごろまで語り続け、先生も非常に満足せられたようであった。
 されば当日の談話は、非常に広汎なる範囲にわたったが、今その大要をいえば、自分が十四歳の時、はじめて『西洋事情』を読んで、おおいに時勢に感発したことから始まり、大西郷(注・西郷隆盛)の添書を持って江戸に出て、勝安房(注・勝海舟)に面会して、いろいろ教訓を受けたこと、西郷従道がほしいままに台湾征討に出かけたのを憤慨して、おおいにその不当を責めたが、その後西郷より事情を聞いて自分の誤解を悟ったこと、また自分は一身を海軍にゆだねる決心で勝安房を訪問したところが、彼は自身の経歴を説いて、海軍振興をもって己が任とするには決死の覚悟がなくてはならぬと激励されたから、自分は万難を排して海軍の学術を修めてみようと彼に誓約して、ついにドイツに留学したこと、また明治二十一年、自分に対して四面攻撃が起こったとき、自分は六か月ばかりかかって、わが海軍大改革案を編成し、これを西郷(注・従道)海軍大臣に示したところが、西郷はちょっとこれを読んだばかりで、すぐに賛成の意を表したので、自分が六か月かかって調べたことを、ちょっと読んだばかりで諒解するはずはない、自分はさような大臣の下に就職することはできぬと言い出したら、西郷は例の調子で、実は一切わかっておらぬが、今日君をおいて海軍改革は不可能だから、万事万端君に任せるつもりである。しかしてこの改革案は必ず内閣の同意を得てみせるから、君も是非留まって、これを実行してくれよと切望せられたことなどであった云々。」

 以上、山本伯爵の談話は、まだその蔗境(注・しゃきょう。だんだんおもしろくなっていくこと)に入っていないので、次項(注・194「山本権兵衛伯爵の福澤談・下」)においてさらに記すことにしよう。


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