百九十一 徳川慶喜公に関する史実(下巻157頁)
大正三(1914)年八月十三日、箱根小涌谷の三河屋で台風の大雨が建物を震撼させんばかりだった最中に、渋沢子爵と前後三時間にわたって対話していた私は、「昔から、歴史というものは、いわゆる史眼炬のごとき人物(注・歴史を見極める炯眼のある人)が、内外、表裏から虚実を明らかにして公正に記述しなければ、その真相を後世に伝えることができないのだから、身近でその真相に触れた人々はなるべく筆まめにこれを書き残して、のちの人に正確な史料を供給するのが義務だろう」という話をした。すると渋沢子爵は次のように言われた。(注・一部わかりやすい表現になおした)
「しごくごもっともなご意見である。歴史の真相が間違って伝わりやすいことは、徳川慶喜公の生涯を見てもわかるだろう。
拙者は、公の伝記【卓上に積み重ねてあった徳川慶喜公伝の稿本を指して】を自ら編纂し、公に関していちばん誤解されやすい事実を闡明(注・せんめい。はっきりしなかったことを明らかにする)しようと苦心している。編年体にすると二か月分で一冊になりそうなので、あまりに膨大にならないように、史料的な記述ではなく叙事的な伝記として書き上げるつもりで鋭意努力しているが、完成するまでにはまだ何年もかかってしまうだろう。
さて、自分が慶喜公に初めてお目にかかったとき、いかにも聡明な御方であると思ったが、その説をきいてみると、当時の公は開国論者である。拙者は攘夷専門であるから、まったく意見が違っていて内心では不満でたまらなかった。
しかしだんだん時がたつにつれ、攘夷などというものが到底実行されるべきでないことがわかってくると、それまでの不平は雲散霧消して、公の先見に感服することになった。
次に、慶喜公が将軍となられたとき、公はずいぶん賢明な人であるのに、もはや余命もない徳川政府を引き受けるとは、やはり将軍にはなりたいものかと、またまた胸中不平にたえなかったが、これも時の経過にしたがい、公が徳川の末路を良くしようとするがために、みずから犠牲になられたことがわかって、またまたその深謀遠慮に感服したのである。慶喜公が出てきて大政を返上し、また謹慎恭順したからこそ、徳川家一門もその末路をまっとうすることができたというのに、いまさらのように拙者などは思慮が浅薄だったということを知り、いよいよ公の高潔な心事を知ることができたのである。
そのことについては、ここにひとつの美談がある。拙者はつねづね、明治政府諸公の、慶喜公に対する処置に飽きたらないものを感じていた。慶喜公が、朝命とあらば、よいことでも悪いことでも、ただ一意謹慎して江戸城を官軍に引き渡し、百万の生霊を塗炭の苦しみから救われたという、その心事を推察するなら、少なくとも諸公と同様の優遇を受けるべき人であろうと会う人ごとに話し、ことに井上侯爵に対しては、勇気をふりしぼって(原文「張胆明目」)そのことを主張したところ、侯爵も『それはいかにももっともである、まず伊藤に話してみるがよかろう』と言われたので、その後伊藤公爵に面会し、真正面から議論を持ちかけたところ、逆に公爵から次のような逸話を聞き、はなはだ愉快にたえなかったのである。
『あるとき、有栖川宮邸でスペインの国賓を招待したとき、慶喜公や自分が陪賓になったが、その宴が終わったあとに自分は慶喜公に向かって、唐突な質問ではあるけれども、そもそも王政維新の際に、公は謹慎恭順の意を表せられて、なんらの抵抗も試みず、王政維新を容易にされたのはまことに感服の至りであるが、当時公はいかなる考えでそのようにされたのか、その感想をうけたまわりたいと申し出たところ、慶喜公は、それはこういうことだ、これは決して拙者ひとりの考えでやったことではなく、つまり水戸の家風である。拙者は十一歳で一橋家に養われるようになったが、二十歳のとき父である烈公(注・水戸藩九代藩主徳川斉昭)が拙者を招き、さて汝もすでに丁年(注・一人前の年齢)に達したので一応申し聞かせておくが、これから国事はどんどん困難になっていくだろう。しかしここに、わが水戸の家風として、いかなる場合にも厳守しなくてはならないのは、朝廷に対して勤王の趣意を守るべきであるということである。もしも宗家と朝廷のあいだに事あるときには、大義親を滅す(注・大義のためには親兄弟をも犠牲にする)の大法により、むしろ宗家に対して弓を引くことになっても、決して朝廷にそむいてはいけない。これがわが家法なので、いかなる場合にもこれに背いてはいけない、と訓戒されたのを常に心肝に銘じていたので、ただその趣意を失わないようにと努めただけで、自分自身でそれこれという考えがあったというわけではなかったのだと、こともなげに答えられたのである。
慶喜公が、自分の問いに対してなんら意見がましいことを述べず、ただ父祖の遺風を守ったまでだと返答されたことは、いかにも奥ゆかしく、ますますその人物の高きに感じ入った云々』
以上の伊藤公爵からの直話を聞き、拙者はますます慶喜公の高潔な心事に感じ入り、なんとかして公の進退大節(注・行動の大義)を世の人に知らせたいと、みずから公の伝記を編纂している次第である」と述べられた。
このとき私は渋沢子爵に対して、子爵は水戸武公(注・水戸藩九代藩主徳川治紀、斉昭の父)が烈公に与えられたという訓言についてすでに聞いたことがあるかどうかとたずねたが、まだきいたことがない、とのことだったので、それならば、他日あらためてそれを写し取ってお見せしましょうということで、当日の談話を打ち切った。(注・その訓言については、次ページ192「水戸武公遺戒の報告」を参照のこと)
「箒のあと」191 徳川慶喜公に関する史実
【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針】
コメント