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百九十  渋沢青淵(注・栄一)子爵経歴談(下巻154頁)

 大正三(1914)年八月、私が箱根小涌谷の三河屋に避暑中、渋沢子爵当時は男爵夫妻も同じ宿に投宿されていた。
 同十二日の夜に台風が襲来し激しい雨が建物にたたきつけ(原文「猛雨沛然として屋を動かし)、電灯は消え、温泉は濁り、さんざんなありさまだった。
 私は手持無沙汰のまま、翌十三日の昼食後に渋沢子爵の部屋を訪問した。
 そこでまず話したのは、当時突発したヨーロッパの対戦の発端となった、オーストリアとセルビアの国交断絶と、それが原因で起こったドイツのベルギー侵入事件のことだった。
 このとき子爵は、次のように話された。(注・わかりやすい表現になおした)
「自分はこのほど大隈首相に面会し、首相の意向を尋ねたが、ドイツ皇帝(注・ヴィルヘルム2世)は一風変わった人物で、その自力を過信し、いま、もしドイツがフランスに攻め入ればイギリスは中立の態度を取るだろうから、あっという間にパリ城下に迫ることができるだろうと思っていた。しかしベルギーがその進軍をさえぎり、英仏露の三国がたちまちのうちに連合するに至った。これはドイツ皇帝も、いささか予想はずれだっただろうが、事がここにいたってしまっては、騎虎の勢いを止めるのはむずかしく、非常に大きな事変になってしまうかもしれない。」
とのことだった。

 またわが国の政府は、イギリスからの要請によって、ドイツが蟠踞(注・動かないで根を張ること)している青島から、その勢力を駆逐することになるだろうという評議もあるようだと、さっき東京のほうからの報告を受け取ったという。
 その談話のあと、私は子爵に向かって、子爵が明治六年に官吏を辞めて、みずから実業界に身を投じたのはどのような考えだったのかと質問した。子爵は例の綿密さで事細かに当時の事情を語られたので、ここにその大要を掲げよう。
 「自分は武州川越在の百姓の子であるが、十四歳のころ、自分より数歳年上だった小高某(注・原文では「小高某」になっているが、いとこの尾高長七郎だろうが、剣術修業のために江戸に出て、ときどき帰村して江戸にいたときの見聞談をするの聞いた。そして今日の徳川幕府は、日本国を統一して攘夷を成功させることはできないだろうと思われるので、むしろ徳川幕府を倒して、朝廷に攘夷を実行してもらうほかはないという気持ちを抱いた。
  そこで、百姓の本分を離れて、だんだんに壮士の気風を身につけ、渋沢喜作と相談してふたりで京都に出奔した。
 しかし身を寄せるところがほかにないため、しばらく一橋家用人の平岡円四郎のところに寄寓していたところ、そのことを幕吏に感づかれ、平岡方に自分たちの身分の照会があった。そのとき平岡は自分たちに対し、今は倒幕論をひるがえして、むしろ一橋家に奉公したほうがよかろうと忠告してくれた。
 ここにおいて自分たちは、幕府に引き渡されて牢死の運命にあうよりも、むしろそのほうが得策だろうということで、ついに一橋家の家臣になったのである。
 そしてだんだんに慶喜公に近づいてみると、慈悲もあり思慮もある君公であるから、この人のためなら一身を捧げて奉公してみようと思い定めた。ちょうどそのすぐあとに慶喜公が十五代将軍になられた。
 自分は、公の弟の民部卿(注・徳川昭武)がナポレオン三世の主催するパリ万国博覧会に出向く一行に加わって渡仏することになった。
 民部卿がその使命を果たしたあとは、五、六年間フランスで学問修行をする予定だった。二年ほど滞在しているあいだに幕府は転覆したが、まだ所持していた金が残っていたので、自分は民部卿とともに依然として遊学していた。しかし藩論の定めるところで民部卿が水戸家を相続することになり、自分も一緒に帰国し、すぐに静岡の宝台院に退隠中の慶喜公を訪問した。
 公は昔とは大違いの哀れなありさまで落涙を止めることもできなかったが、自分がさかんに薩長の暴慢に憤慨しているのを見て逆に私を慰め、決して嘆息する必要はない、人を恨まず、天をとがめず、静かに本分を守るがよいと説諭された。
 私は憤りが簡単には収まらず、新政府に対して大きな不満を抱いていたが、明治二年の新政府の命令で是非なく大蔵省に出仕することになり、はじめは大隈侯爵の下で働いた。
 ほどなく大蔵大輔となった井上侯爵と知り合い、当時の財政改革について、ともに尽力はしていたものの、自分は慶喜公に対する情誼からもともと仕官を好まなかったので、明治六年に井上侯爵の辞職とともに自分も辞め、民間に下って実業方面に従事することとなったのである。
 それ以前に、自分はフランスの商業状態を見ており非常に感じ入るところがあった。日本の商人には国家的観念というものがなく、よきにつけ、悪しきにつけ、政府に盲従して自分の利益を計っている。それだけでは国家の前途ははなはだおぼつかないと気づいた。しかし、大蔵省の在勤中に、しばしば民間の商人と接触するうちに、そのなかで意見を話せるのは三井の三野村利左衛門など二、三人だけで、この人たちとて確固たる国家観念があるわけではないから、自分自身が商業界にはいってこの社会のために尽くすほかはない、と決心したのである。
 そんなとき、うまい具合に伊藤博文公爵がアメリカから帰り、国立銀行条例を日本でも実行しようということになり、自分が、その銀行制度実施の先頭に立ち、第一国立銀行の頭取を引き受けて、いよいよ本格的に商業界に乗り出すことになったのである云々」
 


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