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百八十九  井上世外侯の狂歌(下巻149頁)

 私は大正三(1914)年三月五日、興津別荘に滞在中の井上侯爵を訪問し、庭の木瓜が開き桜のつぼみも膨らんで、春雨一過すれば、まさに嫣然一笑(注・あでやかに笑う。ここではつぼみが開くこと)するばかりになった快心草堂の縁先に出て、黒潮の上を渡ってくる春風に吹かれながら、いろいろな雑談をした。そのとき侯爵は記憶をたどり、あれやこれやの自作狂歌について語られた。
 侯爵の狂歌には侯爵の奇智頓才が現れており、専門狂歌師の作よりもかえって面白いものがある侯爵は、それらの狂歌を書き留めておかれているのかと質問すると、否、そのとき、そのときの座興で、詠み捨て、書き捨てだから、ほとんどは忘れてしまったよと言われる。
 そこで、私は、それまでに聞き込んでいたものと、このときに聞き取った秀逸なものを合わせ、ここで紹介することにする。

 明治二十一(1888)年ごろ、外務大臣を辞めて、長州の外海というところに引き籠りけるとき
    隅田川人のうらやむ都鳥 今は外海【とのみ】の鴎なりけり

 あるとき、富士の裾野を過ぎて
    下女らしき名に不似合の白化粧 ツンとすまして人を見くだす
 

 明治三十年ごろ、朝鮮より帰ってきて、興津に引き籠っていたとき、故伊藤博文公爵からしきりに就官を勧められて
    間をやめて世外に棲むからだ 猿にしておけ猿にしておけ

 同じ折、使者が度重なるので、興津に横砂というところがあるのを思いついて
    寝おきつ浮世の外の老の身は 用があってもむかひ横砂


 日露戦争中、高橋(注・是清)日本銀行副総裁が、公債募集のために渡英することについて、世評がばらばら(原文「区々」)だったので
    よしあしの中にかかれる高橋は 渡りてきかむかりがねの声 
 

 修善寺にこもっていたとき、旅宿で朝夕、興津鯛ばかり出されたので
    あま鯛で寝てもおきても小言のみ 醤油やうにつけ焼かれては
 

 身延山にお参りしたとき、僧に何か書いてほしいと頼まれたので
    門前の小僧のみかは藪かげの 鶯さへも法華経となく

 還暦の年に、人に見せるために
    けふよりはもとの赤子にかへりけり 皆ちやん御免だだをこねても

 奈良に遊んだとき
    いにしへの奈良の都をたづぬれば 春日にのこる鹿の声のみ
       

 明治三十一年二月、官をやめて鎌倉に引っ込んだとき
    世はうしと由井の浜辺による波に ときし冠のひもを洗はむ
 

 伊豆の鼓(注・つづみ)の滝にて
    音にきく鼓の滝の水しらべ しめつゆるめつなり渡るらむ
 

 駿河半紙を漉くのを見て
    木の皮をむいてみつまたにてほして なんと駿河の紙のたふとさ
 

 甲斐の国のある製糸場を参観していたとき
    おかひこでくるめそだてし甲斐の国 木綿もきぬと人はいふらむ


 あるとき朝鮮の時局について
    てうせんとにぎつて打てど手にならず 岡目八目つぶれかんじやう
 

 静岡県の近藤という茶人が「山里は茶うけの菓子も事たりて松風もあり落雁もあり」と詠みおこしたことに対し
    耳と目で茶うけの菓子が事たらば ゑがいた餅で正月はすむ
 

 また、同じ人から「法性のむろぢと聞けど我すめば有為の波風立たぬ日もなし」という歌を見せられて
    うろむろと悟りすごすなけふすめば 金でなければ何で空海
 

 山口に遊んだとき、ある人が戯れに、相撲の賭けで十五円を得て、御馳走するというのをきいて
    ごちそうに御礼はいらぬ十五円 とりし相撲は人のふんどし

 以上の世外侯爵の狂歌を通してみると、侯爵は何かに感激した場合に、狂歌でその所感を洩らされたということがわかる。また、時として、三猿という号を使われていたので、次のような狂歌もあった。
 
   
自作の竹花入に初冠と命名して
    うひかむりつけて無茶くちや楽まん 人の笑ひはかへり三猿て

 世外侯爵は、伊藤、山県両公爵と並び、長州の三傑と称されたが、詩書においては伊藤公に及ばず、和歌においては山県公に及ばなかった。そのかわり書画骨董の鑑賞に関しては両公のはるかに上を行き、狂歌においてもまた他の二尊を凌駕し、杉聴雨(注・杉孫七郎)子爵とほとんど伯仲する間柄であったと思う。

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