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百八十八  白紙庵構築の由来(下巻145頁)

 私は、しばしば述べてきたように明治四十五(1912)年からその身を文芸界に投じることになったので、十年余り住み慣れた麹町区一番町の邸宅を中井新右衛門氏に譲渡し、四谷伝馬町に新しい境涯向きの住居を建てることにした。
 そこの新築の茶室に、なにか人を驚かすような趣向を加えたいと思い考えた末、それまでに三百年以上たった白紙を収集しておいたので、新しい三畳台目の新席の壁を全部その白紙で張りつめることにした。
 ところが同じ白紙といっても、それぞれ多少の濃淡がるので、まるで地図のような模様が現れ出た。これならば、必ずや好事家の一粲を博す(注・謙遜の意味で、お笑い種になる)に違いないと思い、自分ひとりで得意がり、名前も当然のごとく「白紙庵」と命名した。そして大正三(1914)年三月八日から新席開きの茶会を催し東京の同好者たちを招待した。
 さて、この新席に掛ける一軸は、徳川慶喜公の大字一行物にしようとかねがね思っていた。そのことには、ほかでもない次のような理由があった。
 先年の御殿山の大師会で私が禅居庵の一席を受け持ったとき、慶喜公が渋沢栄一子爵同伴で来臨された。東道役(注・来客の世話人)で台主の益田鈍翁も同座してしばし清談を交わした後、私は慶喜公に「御序(注・ついで)の節、何がな御染筆を願いたし」と申し出たところ、公はすぐに快諾してくださった。
 そこでその後、白紙に縁故のある文句を二つ、三つ選んで、公の末女である徳川圀順公爵夫人の手元に渡し、夫人を経て重ねて願い出たときには、公はすでに病床にありもはや執筆はかなわなくなってしまったので、公の生前にその墨蹟を拝領する機会を失ってしまった。これははなはだ遺憾なことだった。
 そこで私はやむを得ず、藤村庸軒筆の白紙の讃を得て、これを開庵の床に掛けたのである。
 その文句は次の通りであった。

       題白紙     庸軒子
  無画無詩掲一行  不看赤青兼黒黄  這中風致凛乎冷  楮国乾坤雪又霜
 
 白紙庵の懐石茶会は十数回を重ねた。来客には記念として、この庸軒白紙讃を染め付けて新調した六角火入を配りなどした。この記念品は、同人のあいだでなかなかの評判になり、松原瑜洲松江藩士、通称新之助翁からは、大心和尚筆の白紙讃一軸に添えて次の五絶を贈られた。

    箒庵兄鼎新白紙庵 余贈大心和尚所書白紙偈幅 更賦此以為慶
                             瑜洲松原新拝
   心清如白紙 性浄似流泉 白紙庵中主 汲泉茶自煎
 
 このほか、同人数名からは詩歌の寄贈をいただいたが、なかでも岩渓裳川翁の白紙行古体一篇は、新しい庵に一段の光輝を添えるものとなった。

    箒庵先生、新築茶室 名曰白紙庵、 即賦一篇古体以博粲
                       裳川岩渓晋
       茆庵新著白紙字 窺得平生尚素意 満壁糊貼千百張 番々足写博物志
    谷泉詩偈趙州茶 三白相得雪月花 久矣二陸伝経具 風流未曾帰驕奢
    維摩丈室有縄墨 軽楹不用珠翠飾 個中悟到一味禅 豈止賓主参語黙(注・楹=柱)

    石丈偶座如点頭 傍有臨風瀟洒侯 唐昌姑射女仙対 蒼髯老叟皆同流
    聞道旧儀其客五 多驚人目物為主 不掃胸裡万斛塵 床頭空挂玉柄塵
    請見高情陶令琴 無絃能解弾旨深 廬家七椀在知趣 徒競茗器終何心
    幽鼎松風払々入 清泉一杓古可汲 世俗好事紫奪朱 悲糸誰作墨子泣
    浮碧殷紅金花箋 敢説日辺天上伝 茶煙色映白紙白 白衣人結浄因縁

 このとき、私もまた、次の腰折(注・自作を謙遜した言い方)を物して、新庵で茶禅一味(注・茶道は禅から起こり求めるところは同一であるということ)を味わいつつあった。

   花の朝月の夕に木の芽烹て(注・煮て)浮世のことは白紙の庵

   白紙の壁に向ひて松風の 音を聞きつつ我が世をや経む

 ところがこの茶会のあと一か月余りすぎた四月十七日に、徳川圀順公爵の家令、福原脩氏が来宅し語るところによれば、私がさきに公爵夫人を経て慶喜公に願い出た揮毫が、昨年十一月二十二日に公が薨去されために果たされなかったことを夫人がことのほか遺憾に思召され、その次第を慶喜公の嗣子、慶久公に申し入れて、私のために公の遺墨一枚を請われた。すると慶久公はこころよくそれを承諾され、遺墨の中から適当なものを選択するようにと福原氏に沙汰があったので、福原氏は白紙庵に縁故のある文句を選び、唐紙半切に次の二句があるものを持参した、とのことであった。
 私にとっても思いがけないことで慶喜公の遺墨を拝領することができたので、よろこんで(原文「欣然」)これを開いてみると、

     素志与白雲同悠
     真情与青松共爽

というもので、不思議にも、素志、白雲などという文字があり、ただ白紙庵に縁故があるだけでなく、なんとやら、私のような隠逸者の境遇にぴったりの語句で、願ってもない好記念物なので、厚く公爵夫人の御好意に感謝した。さらに徳川邸へもまかり出て、慶久公にもお礼申し上げたのである。
 この白紙庵は、幸いに癸亥(注・みずのとい。大正12年)の震火災にもあわず、今は斎藤浩介氏の住居になっている。微々たる一庵室に関連して以上のような因縁話があったので、追憶の一端にもと、ここにその由来を記し置く次第である。


(注・原文で、146頁の最終行[ー人であった三輪君が、・・・布袋腹を抱へ]は、前項の144頁の最終行に来るべきものである。)


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