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百八十七  東都の三曲界(下巻141頁)

 明治中期以来、東都(注・東京)の三曲界(注・地歌、箏曲、胡弓楽、尺八楽の四種の音楽の総称。他の邦楽種目である長唄、義太夫節、清元、琵琶楽、能楽は含まない)には、それぞれに若干の大家が存在していたが、私は、亡妻も後妻も、みな琴や三味線に親しんだので、自然とそちら方面の大家と接触し、その技芸を傾聴する機会が多かった。だから自分では練習したことはなくても、その芸風や巧拙について、まったくの門外漢というわけでもなかろうと思う。
 明治中期には、山田流の中能島松声が嶄然として(注・抜きん出て)頭角をあらわした。も三味線も達者であったうえ、無類の美声で、よどみない節回しには、他の追随を許さないものがあった。
 彼は、単に山田流の琴唄だけでなく、富本の名曲に琴の節付けをして例の美声で唄い、ときどき清元お葉との掛け合いで演奏したこともあった。
 中能島は、でくでくと肥満し、たちの悪い(原文「念の入った」)疱瘡のために目が不自由になったうえに頭部は茶色や紫色のしみだらけで、色つきの地図を見るような非常にグロテスクな容貌だったのであるが、天はこの名人に美声という一物を与え、ひとたび発声すれば、いわゆる「梁塵を動かし(注・漢の魯の虞公は声が清らかで歌うと梁の上のちりまで動いたという「劉向別録」の故事から歌や音楽にすぐれていることのたとえ)、潜蚊を舞わしむる」の趣があった。五世延寿太夫がまだ若かったころ、彼とお葉の掛け合いでお菊幸助を語るのを聞き、感動のあまり清元を習う気になったという一事をもってしても、そのことは十分に理解できるだろう。
 さて、中能島に次ぐ美声家は山登万和である。この人は、私の一番町宅にも何度もやってきて、得意の自作である須磨の嵐などを唄われた。
 山登は痩せぎすで色が黒く、出っ歯だった。凛々としたその声は、いわゆる「盲人声にあらず(注・声をきいただけで情景まで見えるようだ、の意味か?)」で、私は、彼が熊野ゆやの「青かりし葉の秋、また花の春は」という一説を唄うのをきいて、いかにも青いように聞こえるのだと毎回笑って人に話したものだった。しかし中能島に比べると、同じ美声でも、ふたりの間には多少の差があったように思う。
 また山田流では、このほかに山勢松韻という大家もおり、この人は琴を達者に弾かれた。門下から今井慶松、萩岡松韻のふたりを出したのは、同流にとっての彼の功労といわなくてはならない。今井慶松が、得意の新晒しなどにおいて師匠以上の鮮やかさを見せているのは、く知られていることである。また、大正の後半から昭和にかけての宮城道雄氏の活躍は、三曲界にとり、たのもしい限りである。
 宮城氏は天才肌で、まだ二十歳前に水の変態という曲を作曲された。思えばそれが彼にとっての出世作であり、その後も次々に新作に励んでいるだけでなく、琴の演奏も非常に達者である。
 氏はまた、いくらか洋楽を研究したので、作曲にもそれを取り入れようという工夫があるようだ。しかしこれは、西洋人がどんなにうまく和服を着ても日本人から見ると滑稽なように、洋楽の模倣は結局彼らの一笑を買うに過ぎない。氏のような天才は、その精力を一番有効な道に傾注して、みごとに当代にふさわしい純日本式の名曲を創作されるようにと私は切に願っている。
 さて、また三味線においては、明治中期に櫛田栄清氏がいた。その門下から、出藍の誉れある(注・弟子が師をしのぐこと)今の高橋栄清氏を出したことを、ありがたく思わなくてはならない。(注・三味線もうまかったのかもしれないが櫛田栄清も高橋栄清も筝曲家)
 また明治末期から大正時代にかけて、熊本から生田流の永谷検校、小出いと子のふたりが上京し三曲界をおおいに賑わした。
 熊本がいかにして、このような名手を生み出したかということについて、私は熊本出身の清浦(注・清浦奎吾)伯爵や、徳富(注・徳富蘇峰)氏などに質問してみたが、結局わからずじまいだった。
 このふたりのうち永谷検校はもちろん名手だったのだが、小出いと子のほうも、単に女流としてのみならず、生田流では、当代で彼女に比肩する人は何人もいないと思う。
 いと子は五歳のときから三味線を習い始め非常に厳格な修業を続け、それ以来、七十五歳の老齢にいたるまで、睡眠時間のほかは、ほとんど三味線を離したことがないという。そういう勉強に加え、天賦の芸才があったことから当然のごとく、ついには超人的な域に達したのである。
  小出は上京後、しじゅう私の家に出入りしていたので、私は毎回のように、そのすばらしい能力に感服していたが、私が四谷伝馬町に住んでいたころ、夜更けてから帰宅すると小出の撥音が非常に遠くのほうまで聞こえてくるので、今夜もまた彼女が来宅しているのだとすぐにわかったほどだった。
 尺八では、先代の荒木古童が一番有名だった。私は彼の晩年に鶴の巣籠を聞き、その妙技に感じ入ったことがある。
 今の古童翁も先代に劣らぬ名手であると言われ、その子である梅旭氏にも非常に有望な将来が期待されていることは、単に琴古流のためだけでなく東都三曲界のために、大いに祝福すべきことだと思う。
 東都三曲界のことを語るに当たり、たまたま思い出したのが、三輪信次郎君のことだ。明治二十五、六(189293)年ごろ、東京の銀行業者が芝紅葉館に日本銀行総裁の川田小一郎男爵を招待した席上で、当時十五銀行支配人だった三輪君が、余興に一曲演奏しようといってなにか琴の曲を弾き終わると、川田男爵は布袋腹をかかえて「三輪法師、三輪法師と呼びつつ大いに喝采したことがあった。
 その後、三輪法師は、山田流女流筝曲家として好評を得ていた山室千代子を相棒にして、四十年間筝曲に没頭しているが、素人としてこのような活動をする人は、古来類例がなかろう。お世辞にも、お上手とは申し上げかねるが、その熱心さにだけは大いに敬意を表さざるを得ないのである。


(注・原文において、144頁の最終行が抜けている。146頁の最終行[人であった三輪君が、余興に一曲奏せんとて、何やら琴を弾き終るや、川田男は布袋腹を抱へ]が、本来ここに印刷されるべきだった。)


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