百八十六 伊藤公題箋文晁幅(下巻138頁)
私は明治四十五(1912)年下期から四谷伝馬町に新宅となる天馬軒を建設中であったが、翌年の七月になってもまだ工事半ばなので、上州伊香保の木暮旅館聚遠楼に避暑にいくことにした。
同旅館の主人、木暮武太夫【先代】氏は私の旧友だったので、「気の合う御仁がやってきた」とばかり、おりおり私を訪ねてきて雑談して過ごしたものだった。
そんな時、氏は木暮家の「いの一番」の宝物であった谷文晁筆の墨画山水大幅を持参し次のように語った。
「これを以前あなた(原文「老兄」)にご覧にいれたとき、非常に称賛されて東京の好事家に吹聴なさったおかげで、その後大評判になり、明治二十九(1896)年、ときの総理大臣伊藤博文公爵がいつしかこの話をきかれて、ぜひとも一覧したいと所望された。そこで、そのころ衆議院議員だった拙者は、同年一月、議員開会の際にそれを持参して上京した。遼東半島還付反対の上奏案がまさに議会に提出されるというときで、伊藤公爵は非常に多忙であったにもかかわらず議会の大臣室でこれを一覧すると言われるので、拙者は部屋まで持参した。大臣室は西洋間で壁に掛物を掛ける場所がなくどうしたものかと見まわしていると、海軍大臣の西郷(注・従道)侯爵が『俺どんに好い工夫がごあす』と言って、みずから椅子の上に立ち、壁に掛けてある柱時計を取り外し掛物をその釘に掛けようとした。ところが少し高くて手が届かないので、佩剣(注・はいけん。帯剣)をはずして軸掛けのかわりにし、首尾よくこれを掛け終えることができた。それを見ていた伊藤公爵はじめ一同は、その機智に驚いたものだった。
さて掛物を熟覧した伊藤公爵は、『これぞ文晁の中の文晁である』と、しばらく感心してみていたが、時は上奏案の議事中という大わらわの最中だったので、西郷侯爵はふたたび佩剣で掛物をはずし、これを巻き納めて拙者に返却された。
拙者はこれを箱に納めて、そうそうに引き下がろうとしたそのとき、さきほどから硯箱を引き寄せて、せっせと墨をすっていた内務大臣の野村靖子爵が、『木暮君、その掛物の外題(注・掛物の題名)の付箋を誰かに一筆願ってはどうです。僕はさっきから、誰かが書くだろうと思って、墨をすって待っていたよ』と言われた。すると西郷侯爵がすかさず『誰彼と言わず、伊藤さんが宜しい』と言って、これを伊藤公爵に突き付けた。
折が折であったので公爵は非常に難色を示したが、西郷侯爵は例の調子で、『これを見料と思うて書くが宜しゅうごあす』と言われたので一同大笑いとなり、公爵もすぐに筆を執り、付箋の上に、文晁筆として、下に春畝山人題と、謹直な楷書で書きつけられた。
ちょうどそのとき、上奏案否決の知らせが大臣室に届けられたので、一同肩をなでおろし(原文「愁眉を開き」)、歓声がわいたような次第だった。
思い返すとこれは十八年前の昔で、そこにいた三人も今は全員この世を去り、この幅だけが当時を追懐する記念の品になったのである。
その後、衆議院書記官の林田亀太郎氏が伊香保に来たので、拙者はこの顛末を同幅の箱裏に書いてもらった。そして今度は西園寺陶庵公が避暑で来られたのを幸いに、すぐに(原文「不日」)箱の表に公爵の題字を請い、十善具足(注・非の打ちどころのない)の宝物にする考えなのだ。」
ということだった。
聞くところによるとこの文晁幅は、木暮氏が高崎である道具店から掘り出したもので、驚くなかれ、その値はたった五円だったという。
ところで、私には木暮氏から前にきいていた話がある。
氏は、明治十三、四(1880~81)年ごろ、官吏になりたいと思い上京した。そのとき福澤先生に面会しこの志望を述べたところ、先生はその不心得を諭したという。「役人などは、産業を持たない士族の子弟がやればよいことで、代々の営業を持つ君などが従事すべきことではない。とくに温泉宿というものは、時勢の進歩につれて、これから大いに繁昌するだろうことは先例を見ても明らかなので、君はまずもって家業に励むことが大切だ。そして、今日は土地の値段が法外に安いのだから、できるだけ土地を買い入れておくのがよいだろう。もし大いに威張りたいというのなら、いつか国会議員になって堂々と国政を議論するべきなのだ」と言われたそうだ。そこで氏は仕官するという気持ちをきっぱりと断ち、もっぱら家業に専心し、その一方で衆議院議員になって福澤先生の言われたとおりに当初の志望を達することになったのだそうだ。
そのとき私は木暮氏に、「しかし、君が先生の教訓どおり、安価な土地を買い入れておいたとしても、この掛物を買い入れた利益には及ばないだろう」と一笑したのである。その武太夫君も今では世を去られ、私もまたほどなく寂滅するだろうから、結局残るのはこの幅ばかりとなることだろう。
「箒のあと」186 伊藤公題箋文晁幅
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