百八十五 西園寺陶庵公の雅懐(下巻134頁)
大正二(1913)年八月、私が伊香保の木暮武太夫の第二別荘で避暑をしていとき、西園寺陶庵公爵が第一別荘にて静養中だった。
私はその前年から無職の自由の身になり、文芸趣味の世界で日々の無聊を慰めており、あまり得意でない俳句などをひねくり回したり連歌もどきの文句を並べたりしていた。そのなかには次のようなものがあった。
湯の宿や隣はさきの総理どの 背戸の垣根にひるがほの咲く
ふしながら見送る雲の行衛かな 杉の葉わけの風の涼しさ
夕立のあとよりつづく蝉時雨 時刻たかへず来る碁がたき
谷ひとつあなたに斧の響かな 浴衣にかをる山百合の花
山風を土産にせばや峠茶屋 足の下より瀧の音する
この連句中の第一句の「隣はさきの総理どの」というのは、もちろん陶庵公を指したもので、宿泊先が目と鼻の先なので、ときどき散策のついでに公爵の閑眠を驚かしたこともあったが、公爵は快く部屋に通してくださり(原文「引見せられて」)、毎度、俗世間を離れた清談に耽られた。
公爵は聡明で博識、多方面にわたる趣味を持ち、なにごとに関しても打てば響くような返答があり、その談話には粛然と襟を正すようなものもあれば、実にここちよいものもあり、そうかと思うと軽快飄逸で頬を緩めるようなおかしな話もあった。そのひと月ばかりの間に何度か拝聴した話の中でいまでも私の記憶に残っているのは、時代の道徳問題に関する次のようなことだった。(注・わかりやすい表現になおした)
「最近、世間で、道徳が次第に衰えていくことを憂い、将来を悲観する者もあるが、かつてに比べて今日の道徳が衰えたとは思わない。自分はまだ若かったころ京都におり、周囲での道徳の腐敗している有様を見てまことに苦々しく思い、他の場所ではここまで腐敗してはいないだろうと考えていたが、その後、諸藩の内情を探ったり旧幕府の気風を察したりすると、やはり京都と変わることなく賄賂が横行し、士風は地に落ちたというありさまは今日よりもさらに甚だしいものだった。
これは維新の前の紀綱が非常にゆるんだときだけではない。士風がもっとも凛然としていたと言われる徳川初期においても同じである。家康の臣下である某が、自分の家は代々ひとりとして御家に背いた者がありませぬ、と自慢のように語ったところ、家康もまたおおいに感心して、汝の家が代々当家に背かぬのは、まことに奇特の至りであるとして、すみやかにその禄を増加したということである。
徳川の臣下には、本多正信などを始めとして、時に臣下となり、また仇敵になった者があったが、その中で某のような者はまことに珍しい律儀者であるということで、褒美を得たのである。
徳川譜代の臣下ですらこのような調子であったから、今日の政事に奔走する者が、あっちにつき、こっちから離れる、というようなことがあったとしても、これを徳川時代の道徳と比較して、いたずらに悲観するべきではあるまい云々」
さて、このとき私は公爵に対して茶掛の揮毫を願い出た。すると公爵は、昨今はリウマチ(原文「僂麻質斯」)ぎみで、筆を持つと手が震えるから、具合のいいときを見計らって執筆しようと言われたのであるが、そのついでに次のように語られた。
「リウマチについて思い出すのは、先年あるところに招かれてやはり手が震えているところに、当地に避暑中だった、かの中村歌右衛門が御盃頂戴といって自分の前にやってきた。あちらも同じく手が震えるので、左の手で右の手を動かないように押さえて盃を差し出すのを、自分もまた手が震えるので左の手を添えてそれを受ける。その酌をするのが、お粂という新橋の老妓で、それもまた震い仲間のひとりなので、徳利が盃にカチカチと当たったのを見て、これでは三震である、と大笑いになったことがある云々」
また、このときであったかその後のことだったか忘れたが、貞奴(注・川上貞奴)とともに伊香保に来た福澤桃介氏が、私と同時に公爵を訪問して雑談したことがあった。
桃介氏は、大同電気社長として木曽川上流に大発電所を完成させた記念に、電気の神の大立像を建設しようという計画を持っており、「電気は女性で現わすべきものだと思うが、なにか適当な神像のモデルはないだろうか」と真面目な顔で言い出された。
そのとき公爵は意味ありげな笑みを浮かべて、「それこれと言わず、御携帯の美人(注・当時、貞奴は桃介の愛人だった)の像にすればいいだろう(原文「しくものはなかろう」)と言われたので、さすがの桃介氏も、正面からの不意打ちに一本参ってグウの音も出なかった。これなどは、公爵が長年のあいだ荒くれ政治家を相手にして鍛え上げられた、一刀流の鋭鋒であると納得したものだった。
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