【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

百八十三  朝吹柴庵道具逸話(下巻126頁)

 朝吹柴庵(注・朝吹英二)翁は多方面に多趣味な人である。才思横溢(注・才能にあふれ)、愛嬌たっぷり、いたるところに奇談の種を宿している。書画骨董方面での逸話が特に多く、なかでも他の人がまねできないところは、「蛇の道はへび(注・専門家にとってお手のものであること)」以上の敏感さで珍器、名物のありかを嗅ぎつけ、海老で鯛を釣るような掘り出し物を見つける能力を持っているということであった。翁のことを私が「道具釣りの名人」と名づけたのは、その抜群の技量を何度も目撃したからである。
 さて、翁がいわゆる道具釣りに出かけるための決まった場所は、下谷仲町の斎藤琳琅閣、四谷見附の伊藤平山堂、その他何軒かの道具店であった。あるとき翁は、琳琅閣で天下の大名物、古銅青海波の花入と、古太刀中の古太刀といわれる「天の座」の名刀を釣り上げたことがあった。
 この琳琅閣の主人は、名前を斎藤といい、本業は古本屋である。旧大名家に出入りするついでに道具類も買い取るようになった一種の変わり種であったが、なぜか世間では彼のことをバイブルと呼んでいた。
 柴庵翁は、彼が古本の横に大名家から仕入れた道具を陳列していることを嗅ぎつけ、ときどき訪問するうちに彼の常連の得意客のひとりになった。今回翁が掘り出した青海波の花入は、茶書のいくつかに水戸殿御所持として挙げられている大名物で、徳川二代、三代将軍がいっしょに水戸邸にお成りになった折に、二代将軍みずからこの花入に緋木瓜の一枝を活けられた、という来歴のあるものだ。後年、水戸家の分家である守山藩主松平大学殿(注・松平頼貞)に伝わっていたものを、琳琅閣主人が、かの天の座の名剣とともに同家より取り出したものだった。
 翁がかねがね垂れておいた釣り針に運よく稀代の大魚がかかったわけで、琳琅閣主人がおそるおそる申し出たその値段というのは、ほとんど二束三文だったので、翁は二つ返事でこれを買い上げた。
 しかし、鼻高々で歓びにひたっている間もなく(原文「隆鼻天に冲して得々自ら悦びたる間もなく」)、それを垣間見た益田鈍翁から熱烈な懇望があった。
 もともと柴庵翁の道楽は、道具を釣ることにあって用いる方にはないのだから、造作もなく譲ってもよいはずなのだが、この花入だけには未練が残り簡単には手放さなかった。その様子は次の譲状によって察することができるのである。

  拝啓青海波花入 御懇望に依り御譲申候、永く御愛蔵賜はり度、希望の至りに奉存候
  東京三十四年除夜
             真言寺拝具
  観濤先生玉机下
   嫁入はめでたけれども親心 嬉しくもあり悲しくもあり
  御一笑可被下候
(注・高橋義雄著「近世道具移動史」では、「嫁入りは是非なけれども」となっている)

 この青海波という花入は、高さ一尺(注・約30センチ)ほど、伝世銅の作、管耳下蕪である。全面が鮮明で、優美高尚な形式は、言語に絶するものがある。銅色も油のごとくで、古謡に「絵かげもうつるなる青海波とはこれやらん」とあるのにちなみ、誰かがこの名をつけたのだろう。とにかく、これは柴庵翁の一世一代の大獲物であった。
 翁には、このほかにも四谷の道具店、黒田琢磨のところから利休丸壺という名物茶入を釣り上げるという大手柄もあった。
 また、古経巻に関心を持たれてからは、扇面経やら久能寺経やらを手に入れたこともあり、晩年には、文人画の方面にも猿臂(注・えんぴ。猿のような長い腕)を伸ばして、頼山陽筆の耶馬渓詩画二幅対を獲得したこともあった。
 翁は石田三成に同情したためか、その相棒であった安国寺恵瓊が所持していた直径八分(注・約2センチ)ほどの純金透かし彫りの印子(注・金塊)を数珠つなぎにした、長さ一丈(注・約3メートル)余りの鎖を買収したこともあった。これは、旧忍藩主松平忠敬子爵の所蔵品だった。
 ともかく、翁の趣味は八宗兼学(注・幅広いこと)であった。広範な方面で釣り針を垂れて、根気強く獲物を釣り上げるというやり方だったので、後代の語り草になるような大収穫があったことも決して偶然ではなかったのである。
 朝吹柴庵翁はあるとき私に向かって、大隈侯爵が井上世外侯爵を評して「井上はあまり学問をしたというわけでもないが、なにか事あるにあたって恐ろしい知恵の出る男である」と言われたと語ってくれたことがあったが、この世外侯爵への大隈侯爵の見立ては、そのままそっくり柴庵翁に当てはめることができると思う。
 翁がどれほど奇智頓才に富んでいるかということは、ある事件に当面したときに、あっという間に名案をひねり出し、周囲の人をその奇想で感心させることが多かったことからもわかる。
 一例としては、馬越化生翁が、かつて小堀遠州銘の有来という茶碗を使ったときに、有来とはどういう意味かということについて、化生翁は「有り来たり」という意味だろうと説明されたのであるが、柴庵翁は簡単には承服せず、帰宅してから沈思百端、夜更けにいたって大悟したという。その説によれば、論語のなかに、
  有朋自遠方来不亦楽乎
とあるが、もともとこの「有来」という茶碗は、前田侯爵家所蔵の「楚白」という茶碗と同手のものなので、小堀遠州が楚白の茶碗の朋(注・友)と見て、論語の冒頭の一句の中から、有の字と、来の字を取り合わせて、その銘にしたのだろう、ということで、遠州の死後に、遠州の心を知る者は、ただ自分ひとりであると得意満面で、即刻これを茶友に宣伝し、それを聞いた者たちはその奇智に敬服したのである。
 その後しばらくして、遠州が寵愛した陶器師に、有来新兵衛(注・うらいしんべえ。
https://kotobank.jp/word/新兵衛-1083231#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus)という者がいて、その茶碗を所蔵したために遠州がこのよう命名したことがわかり、柴庵翁の沽券は、すこしばかり下落したのであるが、翁にはこのほかにも各種の発明があり、翁の生前は茶界が非常に賑やかであったというのは事実である。翁は、茶の世界における一種の天才であったというべきであろう。



【箒のあと(全)・
目次へ】【箒のあと・次ページへ