百八十二 三井松籟翁の茶品(下巻123頁)
三井松籟翁は八郎次郎(注・三井南家の当主の名)と称し、総領家(注・三井北家)主人の八郎右衛門高福翁の第二子で、諱を高弘という。三井南家を継ぎ、明治二十二(1889)年第一国立銀行の取締役になり、同二十五年ごろから三井家の重要な諸職を歴任した。
三十四(1901)年三井物産会社の社長に就任し同社の盛運の基礎を開き、その勲功で男爵に叙せられことはよく知られている。
翁はこうした本領のほかに、もともと文雅風流を好み、茶道に造詣があり、鑑賞眼にすぐれていた。また人あたりが温厚で、事にあたって円満に処理をする才覚を備えていた。
優雅な品格に加えて、茶道の修養のたまもので、玉のように非のうちどころのない人となりで、大正二、三(1913~14)年ごろには、和敬会、すなわち十六羅漢会の白眉としてこの世界での崇敬を集めていた。
もともと三井南家には過去に文芸をもって世に知られた主人がいた。なかでももっとも高名だったのは、延享四(1747)年に生まれ寛政十一(1799)年に享年五十三歳で没した、嘉栗居士、俗称を長次郎、諱を高業といった人だった。
高業は、わけあって大阪に隠居した。狂歌を栗柯亭木端に学び、僊果亭嘉栗と称し、蜀山人(注・太田南畝)を旗頭とする江戸の天明ぶり(注・天明狂歌)と拮抗して、おおいに浪華狂歌の気焔をあげた。
居士の狂歌の中で、花より団子の意味を詠じたものがある。
世の中のながめは稲の花ざかり 吉野龍田はそれからのこと
また、「つるめそ」といって、京都祇園祭りの甲冑行列に雇われていた日雇い労働者が、炎暑の下で汗みどろになって練り歩くさまを詠じたものには、
つるめそが其ひおどしの鎧きて 下には汗のくさりかたびら
また、居士の会心の作で、辞世の意味を込めたものには、
幕串の跡はそのままありながら 夕ぐれさびし花の木のもと(注・幕串=幕を張るために立てる細い柱や串)
飲みつづけ日数も一二みいらとり 其むかへ酒そのむかへ酒
などがあった。
狂歌の著作として「貞柳伝」、「奈羅飛乃岡」、「栗葉集」、「辰の市」、浄瑠璃に「伊賀の敵討」、「糸桜本町育」、「納太刀誉鑑」、「碁太平記白石噺」、紀行文に「北国路之記」、「吉野紀行」がある。
なかでも「伊賀の敵討」は、「伊賀越」として東西の歌舞伎で何度も上演されたし、「碁太平記白石噺」も、例の宮城野信夫の仇討の話で広く世間に知られている(原文「人口に膾炙する」)ものである。
松籟松翁はこのような文豪を出した商家を出した三井南家に、三井総領家からはいって主人になったので、家に伝わる書画、器具を、思うままに使って理想的な茶会を催すことができたのである。当代の紳士茶人の中で、抜きん出て(原文「嶄然。ざんぜん」)頭角をあらわしたのにはそのような背景もあった。
翁はきわめて丹念な(注・念入りな)な性格で、茶会を催すときには、半年ないし一年前から道具の組み合わせを研究したものだ。実物を茶室に並べて千思万考し、すみずみまで納得してから(原文「毛髪遺憾なきにいたって」)はじめて実行に移すという流儀であった。
だから、翁の茶会は、一年に一、二回に過ぎなかったが、あの「三年鳴かず、鳴けば必ず人を驚かさん」という故事に似たおもむきで、だいたい毎回、後世に伝わるようなすばらしい出来ばえの茶会を催されるのだった。
たとえば、日露戦争中の奉天戦のあとの祝勝茶会では、床に宗祇法師の大倉色紙の「旅人の」の一軸を掛け、薩摩焼と萩焼の筒茶碗を用いて薩長の意味を暗示するとともに、筒茶碗の形に大砲を重ねたという機転なのであった。それなどは、翁の遊び心が高じて際物師になってしまったと、茶人たちの大喝采を浴びた。
また、大正二(1913)年の紀元節には、御即位の御大礼が行われる年の佳辰(注・かしん。めでたい日)を記念しようということで、床に一休筆の色紙を掛けられたのであるが、その歌は、
あしはらは国常立を始めにて いくよを守る神となるらむ
というもので、その日の会の床飾りとして、これ以上の掛物があるとは思われなかった。また、そのたばこ盆に、呉須【ごす】の「朝日に鳳凰」模様の火入を置き、香合は染付の鶺鴒(注・せきれい)を使い、吸物に大内蒔絵小椀を出し、三輪明神の祭器だった斎部【いわいべ】(注・神酒を入れるもの)という素焼きの小甕を花入として掛けるなど、いずれも茶題にふさわしい器物の組み合わせだった。
これはつまるところ、宝蔵の奥が深く、勇将に仕える勇猛な兵卒が雲のように湧き出てくるのと同じで、道具が主人の点呼に応じて、いつでも陣地につき争って役に立とうとしているためである。しかもそれが茶番に陥らず、品を保ってその趣向の目的を果たしているあたりは、翁の独擅場といってもよいだろう。
惜しいかな、翁はそのころから病床につかれることが多くなり、ながいこと茶会を催すことができなかったのであるが、翁は、京都鷹峯光悦会の会長なので、あるとき、光悦会大虚庵の一席を受け持ち、寸松庵色紙の「山里は秋こそことにわびしけれ」の一軸を掛け、その前に自作の千家了々斎ごのみの巻水形竹花入を飾り、またすべての器具をこれに準じるものでそろえて関西茶人の目を驚かしたこともあった。
要するに、翁の茶品が人格と同様に非常に高いということである。私の生涯においても、翁のような大家に遭遇することはめったにないことだと思うにつけ、追懐の情にも切なるものがある。ここに翁の茶品の一端を述べ、同人の記憶を新たにしようとする次第である。
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