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百八十一  脱線党の一人者(下巻119頁)

 「箒のあと」も、最近少し堅苦しい話題が続いたので、合いの楔(注・中間のつなぎ)に、この辺で無邪気なナンセンス物語を挿入しようと思う。
 そんな「脱線党」の第一人者といえば、なんといっても、わが益田紅艶(注・益田英作)である。雅俗の両方面でいろいろな珍談があるので、その二、三を紹介しよう。
   

 汽車の中で近善を生け捕りにした話

 益田紅艶が関係していた道具商である多聞店は、同業の近善と、一番多くの取引をしていた。近善というのは竹内広太郎の店の名で、彼の親父が名古屋出身だったので、その道具の買い出し先が特に名古屋方面に多かった。
 紅艶は、名古屋の某家が所蔵していたある名器を買い取ろうとして、ずっと前から近善に依頼しておいたのだが、道具取引の上で近善のことを毎度のようにたしなめていたので、いつか近善が、かの名器を取り出しても(注・道具商が売り主から品物を手に入れても、という意味)、もしかすると自分を袖にして、他の得意先に持っていってしまうのではないかという疑心暗鬼に陥ってしまった。
 そのような折のことであった。近善はある日、道具を包んだ風呂敷を抱えて名古屋から帰京する夜汽車に乗り込んだ。そして、豊橋のあたりにさしかかったときである。大阪から帰京する途中の紅艶が偶然にも同じ汽車に乗り合わせており、便所に向かった。そして思いがけなく、近善と彼が携帯していた道具の風呂敷包みを発見したのである。
 さては、いよいよ思ったとおりのことが起きてしまったと思った紅艶は、列車中に響き渡るような大音声で、「見つけた、見つけた」と怒鳴りながら、近善の首筋をつかみ、猫の子でも吊るしあげるように、風呂敷包みもろとも、隣室の自席(注・コンパートメントがあったのだろうか、それとも隣りの車両のことか?)まで引き摺っていってしまった。
 同乗していた旅客たちは非常に驚き、近善のことを、てっきりスリだと思ったらしい。どうりで目つきの険しい男だったと思っていたが、さては、あのでぶでぶした男の風呂敷を掏り取ったに違いない、おのおのがたは、何か紛失物はござらぬかと、上を下への大騒ぎになったという。
 やがて近善がもとの席に戻ってきたあとも、みな警戒を解かず、とうとう彼はスリにされてしまったということだ。


 新発明の湯たんぽの破裂

 紅艶の汽車の中での珍談には、さらに振るっているものがある。
 彼は大正初年の冬、加賀金沢の道具入札会に行こうとして、上野駅(原文「停車場」)から、寝台車の二階に乗り込んだ。
 彼は、大仏といわれるくらいの大兵の肥満体だったので、二階に何度も昇ったり降りたりするのが不便だと前々から用意してあったゴム製の小便袋を携帯していた。その小便袋は、用便のあとには、湯たんぽに変身するという彼の新発明もあって、彼は「寒中の旅行は、これに限りやす」と得意がっていた。
 さて汽車が高崎あたりを通過したころ、彼が寝返りを打ち、ゴム袋を尻の下に敷いた。その途端、袋が破裂して、寝台は大洪水となってしまい、着ていたものもびしょ濡れになってしまった。
 さすがの紅艶もいたたまれずに、汽車がやがて軽井沢に着くと、同伴していた店員に助けられてプラットフォームに飛び出した。そこの洗面場の水を、衣服の上からザアザアとかけ、ちょっと絞っただけで、もとの寝台に立ち戻り、平気で寝込んでしまった。
 翌朝金沢に到着したときには、からだの熱で、みごとに衣が乾きあがっていたとは、紅艶ならではの人に真似のできない珍芸で、話を聞いた人はみな鼻をつまんだという。


 警句とポンチの天才

 紅艶は、近善に行ってめぼしい道具を買い取るときはいつも、紙切れにその道具の絵を描き、横に代価を書き込んで伝票がわりにし、それを多聞店のほうに持ってきてもらうという習慣があった。
 あるとき、仁清(注・野々村仁清)の茶碗を五十円で買い取り、例によって紙片にその図を描き、その横に、

  仁清わづか五十円、二十五円は直(注・すぐ)でくさし

と書きつけた。
 これは、「人生わずか五十年、二十五年は寝て暮らし(注・桃中軒雲右衛門の浪花節。「朝寝十年うたた寝十年残り五年を居眠りすれば人生しまいにゃゼロになる」と続く)」のだじゃれ(原文「地口」)であり、紅艶の生涯中でも一番の傑作だった。彼が死去したときには、香典返しの袱紗に、この文句が染め出されたが、それなども、いかにも故人にふさわしい、しゃれた思いつきだった。
 また明治四十(1907)年ごろであったか、名古屋の道具数寄者であった織田徳兵衛老が、私の寸松庵で同席した誰かと濃茶茶碗を品評して、萩焼か、唐津焼かとあれこれ考えていた。そのとき紅艶が横から口を出し、「鷺を烏と争うのでゲスか」という洒落を言った(注・さぎ=萩、からす=唐津)。すると織田老は、茶室で洒落を言うとはけしからんと非常に不満の色を表わしたのであるが、相客一同は喝采し、その傑作を賞讃したものだった。
 またあるときには、長唄研精会(注・明治35年に結成された長唄演奏会。112・長唄研精会来歴
参照のこと)で、長唄の囃子というのは古い妾のようで、あれば煩わしいが、なければ淋しいと評し、まわりにいた人たちは、いかにもその通りだとうなずいたものだった。

 さらに、紅艶の頓智の才能は、口舌だけに限ったものではなく、ポンチ画を描かせても、また独特の才能を発揮した。令兄である鈍翁(注・益田孝)や、山県老公などの似顔絵には、実に非凡の傑作がある。
 しかし天下一品というべきものは、彼が日光遊覧中に小西旅館に泊まったときに描いたものだ。
 泥棒の用心に、ということで、紙入(注・財布)を花生(注・花瓶)の中に隠した椿事を、みずからポンチ画にして、詞書を添えたものである。
 最初は、大兵肥満で近眼眼鏡をかけた大入道が、花生の中に紙入を隠している図、次は、その花入の中に水が残っていて、入れた紙入がびしょ濡れになったところ、その次は、濡れたお札に火熨斗(注・ひのし=炭火を入れて使うアイロン)をかけて、「これなら大丈夫、使えるな」と、ニコニコして喜んでいるところの図。
 それを順番にたどって描いた巧妙さは、プロの画家も顔負けであったし、自分を上手に滑稽化して描いた、自画像の見本のような出来ばえだった。
 このように、この方面での彼の頓才(注・臨機応変な頓智)は、彼の警句とともに、まだまだほかにも語り伝えられている。それらについては、またのちに記述することにしよう。


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