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百八十  実験上の宿命観(下巻115頁)

 私が明治十四(1881)年に上京してから、今日にいたるまでの五十年余りのあいだに接触の機会があった大人物の中には、維新の前後に死生の間で奔走した人々が多い。これらの人々は、ことさらに学んだというわけでなく自然の巡り合わせから、禅宗の、いわゆる「大死一番」、「底の境地」を経験し、知らず知らずのうちに悟りの道に達したものか、大事に臨んで驚かず泰然自若の趣のあることが多い。
 あるとき井上世外侯爵が、維新の前に伊藤博文公爵とともにイギリスに遊学した時の船の中での経験談を語られた。その中で次のような話をされた。(注・一部わかりやすい表現に変えた)
「自分と伊藤は英国の帆前船に乗り込んで、まず上海まで出かけたが、このとき船長が、なんの目的をもって渡英するのかと自分たちにきいてきたのを、その身ぶりによってだいたいの意味をとることができたので、航海術を研究するためだ、と答えるつもりが、英語を話すことができない。自分たちは、ネビゲーションという語が航海という意味だということだけを知っていたので、その語を何度も振り回したところ、船長は早合点し、ふたりが水夫の見習いになりたいのだと思い、そのときから自分たちは、インド洋を過ぎ、喜望峰を回り、英国に到着するまで、甲板上で水夫のやる仕事を言いつけられたのである。
 喜望峰に近づいたころ非常に大きな嵐に遭遇した。波が甲板を洗い、すさまじく荒れ狂っているので、自分たちは、細縄で体をマストに結びつけながら立ち働いていた。そのとき、ひとり強情な水夫がおり、そんなまねをしたくないと言って威張っていたところ、たまたま非常に大きな波が来て彼をさらっていってしまったので、さてさて気の毒なことをしたと思っていると、今度はその大波が揺り返してきて彼はふたたび甲板に投げ上げられ、彼はマストに取りついて奇跡的に一命をとりとめたのである。
 それを見て自分は大いに悟るところがあった。人間というものは、生きようとしていても生きられるものではなく、死のうとしても死ねるものではない。これはみな天命が定めるところなので、安んじてこれに服従するよりほかはないと思ったのである。」

 また私は、山県含雪公爵からも、これとほとんど同様な懐旧談を聞いたことがある。それは次のようなものだった。
 「長州藩が攘夷実行のために、元治元(1864)年に下関で、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊と戦闘した。そのときの本営は前田に、支営は壇の浦に置かれた。
 自分は壇の浦の砲台を守備し、最初は外人の砲撃など大したことはないと、たかをくくっていた。しかし八月五日、連合艦隊は前田砲台と壇の浦砲台に向かって、さかんに猛撃を開始した。
 そのとき先方の軍艦は、わが射程外にあり当方の弾丸は先方に届かず、先方の弾丸だけがわが砲台に命中するので、前田も壇の浦もさんざんに攻撃され(原文「這々の体に打ちなされ」)、翌六日には壇の浦がとても持ちきれなくなったので、自分は兵をおさめて前田の本営に引き返した。
 そのときの陣営はほとんど焼け落ち、外国陸戦隊がすでに上陸し始めていたので、士気ははなはだ振るわず逃げ腰の者も出てきた。
 そこで自分は、敗兵をまとめてしきりに防戦を試みたが、武器の性能の違いが大きく非常な苦戦に陥った。
 さて自分が手槍を杖にして前田の本営に立ち上がったとき、急にのどの渇きを覚えたので、焼け残りの木材に腰かけ、鉄砲でも洗ったらしい手桶の中に煤だらけの水があるのを見て、これでも飲もうと前方に身をかがめたその瞬間、敵弾一発が背中をかすめ、腰につけていた握り飯の包みを打ち抜き背中と右腕にかすり傷を受けたのである。
 もしこのとき身体が直立していたならば、ちょうど胴のまんなかを射抜かれていたはずであったのに、煤けた水を飲もうとして前にかがんでいたばかりに、幸い命拾いをしたのである。
 そこで自分は、死生には天命あり、死ぬときはいかに用心しても助からず、生きるときには偶然にも危機を免れるものであると、しみじみと人の運命を悟ったのである。」

 ナポレオンの伝記に書いてあるそうだが、彼が戦争で、弾丸雨飛をものともせずに、悠然として砦の壁の上に立ち、双眼鏡で戦争のありさまを眺めていた。そのとき、傍らで砦の壁の陰から目だけを出して戦争を見ていた幕僚の一士官が、飛んできた弾丸に額の真ん中を打ち貫かれて即死した。
 ナポレオンはそれをかえりみて、おれのように壁の上に立っていれば、たとえ弾丸が当たっても急所を避ければ死なずにすむのに、臆病なまねをするから、かえって命を取られるのだ、とののしったそうである。
 これもまた、ひとびとの運命の強弱というもので、たおれる者はそれまでである。生き残った者が最後の勝利を占めるわけなので、じたばたしてもどうすることもできないものなのだ。
 このような宿命観は、大死一番の境涯を通過することにより、自然に悟り得るものなのだろうか。私の経験では、維新前後に活動した英雄豪傑の中に、そのような覚悟を持つ人々を非常に多く見出すような気がするのである。

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