百七十九 内田山掛物揃い(下巻112頁)
井上世外侯爵は大正二(1913)年一月二十六日の早朝、自邸の湯殿(注・風呂場)で冷水浴中に軽度の脳溢血にかかった。発病当時は左の手足がきかず、談話も不明瞭になった。
同二十九日、私が吉本博士の許可を得て侯爵に面会したときには、「あまり悪口などを利くものさに、とうとう病気になってしまったよ」と打ち笑い、左手を上下して「どうしてもまだ自由にならず、ものをつかんでも感覚がない」と訴えられた。
しかし二月にはいっておおいに元気を回復し「相手欲しや」の状態になられたので、なんとか病中のつれづれを慰めてさしあげたいと思った。侯爵はかねてから清元が好きで、お若をひいきにされていたので、私は河東節の「東山掛物揃い」にならって「内田山掛物揃い」という曲の作詩をして、五世延寿太夫に節付けを依頼した。
三月上旬にその曲ができ上がったので、いよいよ演奏の準備を整えることになった。築地瓢家の女将(注・お酉)を世話人にして、三味線はお若、丸子、唄は〆子、花吉、やま子に振り当てて、九日の午前十時から、侯爵の病床がある光琳の間で、掛物揃いの新曲披露をすることになったのである。
その日の陪聴者として、平岡吟舟、野崎幻庵、原田次郎(注・軍人の原田次郎ではなく、第74銀行頭取の原田二郎のように思われる)、今村繁三、その他婦人客数名を案内した。
侯爵は、床に銭舜挙(注・銭選)筆の宮女牡丹花の一軸を掛け、砧青磁の筍形花入に白玉椿を活けなどして喜色満面。耳を澄ましてこれを傾聴された。歌詞、曲は次のとおりであった。
内田山掛物揃い
(エドカカリ)〽久方の月まつ山の (合)下庵【いほ】に (合)数寄をこらせし故事を、今も都の内田山 (オトス)けふまれ人をむかひつつ、掛けつらねたる名画の数々、あたりまばゆき (スエル)ばかりなり。
〽先ず周文の間に掛けたるは、むかし蒙古の大軍が、皇国に仇せし其時に (合)土佐の長隆一心に、敵国降伏の祈誓をこめ、画ける不動の尊像にて (合)降魔の剣を打ふつて (合)雲を蹴立てて飛びゆく有様 (合)如何なる天魔おにがみも、畏れつべうぞ見えにける。
(クドキ合)〽また光琳の間に掛けたるは (合)徽宗皇帝の御筆にて、(カン)桃の梢に鳩ひとつ、春の日かげのやはらかく、羽色にうつる (合)筆のあや、(オトス)風情をここにとどめたり。
(イロ)〽さて御居間は一休が、悟りごころの面白く、杖をかたげて (合)丸木橋を渡る旅人、下は谷底 (合オット)あぶない (合)すでのこと、浮いた浮世の綱渡り、さつてもこのよなものかいな、粋な和尚の筆すさみ。
(ウキギン)〽八窓庵は、西行が江口の里に行きくれて、賤が軒端にただずみつ、一夜のやどりを乞ひけるに、あるじと見えし、あそびめが、情なぎさのことはりに (詞)『世の中をいとふまでこそかたからめ仮りのやどりを惜む君かな』と口吟めば、あるじは之を聞くよりも (山田)〽『世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ』と心ありげの言の葉に、露をもやどす草枕、仮寝の夢ぞ奇特なる (二上り)〽面白や、さしも江口の河船に、遊女のうたふ棹の歌、うたへやうたへ、うたかたの、あはれ昔の恋しさよ (ツツミウタ)〽是までなりといふ浪に、浮べる舟は、忽ちに六牙の象の姿となり、普賢は之れに打乗りて、西の空へと行き給ふ有りがたかりける次第なり。
(カカリ)〽花月の間には、南蘋か朝日に鳳凰をぞ掛けにける (ウタヒ)〽まことや聖人【ひじり】世に出づれば、此鳥奇瑞をあらはして〽豊栄【とよさか】のぼる朝日子の影に羽をのす豊けさは、実に治まれる大御代の、姿もかくやと、一同に感ぜぬものこそなかりけれ。
河東節の「東山掛物揃い」は、近松門左衛門の作であると言い伝えられ、河東節の中の白眉であるが、作者は、君台観(注・足利義政東山御殿内の装飾に関して能阿弥や相阿弥が記録した美術工芸史「君台観左右帳記」)を参考にしたとは思われず、とにかく、事実に即した文句ではない。
しかし私のものは、井上家の秘蔵品の中から五幅を選んだものである。
周文の間には、土佐長隆筆の蒙古退治不動(注・蒙古襲来絵詞の一部か?)、光琳の間には徽宗皇帝の桃鳩図、御居間の床には一休和尚の丸木橋渡り、八窓庵には西行法師の江口の歌、花月の間には沈南蘋筆の朝日に鳳凰の図を掛けて、めでたく一曲を語り納めるという構成であった。
作曲者も歌意をくみ取り、発端では勇壮、中間は上品かつ艶麗。その後、幽幻清寂にはいり、典雅荘重の趣をもって終局を迎えるよう苦心したようだった。
そのころは、新橋の清元連が美声ぞろいで同流の最高潮に達したときだったから、曲が終わるや、世外侯爵夫妻をはじめ一同は感じ入り、ヤンヤの喝采がしばらく鳴りやまなかったものだ。
場所といい場面といい、またその演奏者といい、すべてに非の打ちどころがなく、このときのような女流演奏家たちの清らかな調べを聴くことは、私の生涯にもう二度とないだろうと思われた。
【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ】
コメント