百七十八 井上侯の財政追憶談(下巻108頁)
井上世外侯爵が、明治の初年に大蔵大輔として財政上に辣腕を振るわれた顛末については何度か聴聞したことがあったが、大正二(1913)年一月十八日に今一度その機会が訪れた。
この日は、井上侯爵がこのほど拝領した明治天皇の御遺物の六点を拝見するために、内田山邸を訪問し午餐をともにしたのち、珍しく来客がとだえたときにきくことができたもので、従来の話よりも簡潔でよく要領を得ているのでここに掲載することにしよう。(注・以下わかりやすい表現に変えてある)
「維新のはじめ、自分が大蔵大輔として財政の局に当たったときには、大久保利通が大蔵卿であった。そのころの外国貿易では、メキシコ・ドル銀貨を持ってきて、日本の二朱銀、一朱銀と引き換えて通用させていた。ところが日本の二朱銀、一朱銀は多量の金分を含んでいるため、貿易のために使うのではなく、その金を含んだ日本銀をメキシコ・ドル銀貨で買い集めて、(注・両者に含まれる金銀量の差で)大儲けをすることが行われていたのである。
明治四(1871)年に、岩倉大使が欧米巡遊に出かけるとき、自分は伊藤に六百万両の銀を託してサンフランシスコに送り、そこで分析させたところ、案の上、多量の純金を得ることができたので、運賃と利息を差し引いても、まだ多くの利益を得た。
そこで自分は、この銀を紅葉山の御蔵に納め、三条公(注・三条実美さねとみ)をはじめとする政府首脳たちに調印させて、これは太政官紙幣の準備金に充てるので、なにがあっても使用をしないということに決定したのである。
ところが、その後政府の費用がどんどんかさみ、太政官紙幣を発行すればするほど、その紙幣の価値が下落していった。そこで自分は三井組に命じて、三井為替券を発行させたのである。
ところが、三井為替券もまた非常に下落してしまったので、同僚からいろいろと攻撃された。ことに江藤新平などからは、三井に為替券を発行させるから、ますます紙幣が下落するのだと突っ込まれた。
それで自分は非常に憤慨して、ならばその三井の為替券を三日間で額面通りにしてみせよう、と言い出したところ、ではお手並みを拝見しようと言い返され、引くに引けなくなってしまった(原文「騎虎の勢い黙止するを得ず」)。
そこでまず、蛎殻町の両替屋に行き、袂(注・たもと)から三井の為替券を取り出し、これを両替してほしいと言ったところ、やはり一割五分くらいの割引料を要求する。そこで、その両替商の名前を手帳に控え、すぐに、そのときの東京府知事の大木喬任氏【のちに伯爵】を訪問して「両替商が政府発行の為替券に差をつけるのは不都合である、さっそくこれを召し捕るべし」と談じ込んだ。
次にその足で円太郎馬車を横浜に飛ばし、まずは富貴楼に陣取って、田中平八、すなわち糸平を呼び寄せた。
そして「自分は仔細あって三井為替券を買い集めようと思うので、新貨幣で五十万円ほど買い入れてもらいたい」と依頼した。糸平はさっそく承知して、それを買い入れてくれたが、そのとき大阪造幣寮で製造中の新貨幣が間に合わなかったので、糸平から非常に怒られたという滑稽談もあったのであるが、しかしともかくも五十万円分を買い入れたので、三井の為替券は、たちまち元値に回復し、自分は幸いにも面目を保つことができたのである。
かの紅葉山のお蔵に封印した正貨についてであるが、どんなことがあっても使用しないと決めてあったのに、江藤新平が裁判所構成法なるものを作り、裁判官を終身官にするために、あの正貨を使用するべきであるという建議をした。自分はさかんに異議を唱え、今日のような無能な裁判官を終身官にするために財政の基礎とするべき大切な準備金を使用するなどとは、もってのほかである、と主張した。しかし他方面からも、この正貨を使用しようではないかと言い出した者もあったので、自分としては、苦心惨憺して準備したこの正貨を使用することに耐えられず、このような財政について疎い役人どもと一緒に仕事をすることを潔しとせず、きっぱりと民間に下り、一生政府関係の仕事には関わらないという決心をした。
そして渋沢(注・渋沢栄一)とともに財政上の意見を建白し、同時に、その趣意を二、三人の新聞記者に話したところ、政府は、自分が機密を漏らしたとして裁判所に呼び出した。そのときには、もろもろの弁論の末に二円五十銭の罰金を課せられた、などということがあった。
さて、自分が政府を飛び出したのは明治六(1873)年であった。その後大阪に行き、先収社という商会をはじめた。藤田伝三郎。木村正幹、益田孝らのほかに、アメリカ人のアーウィン(注・ロバート・W・アーウィン)などを加え、アメリカ一番商館(注・ウォルシュ・ホール商会)から、一時は七十万円ほども借金して、おおいに商工業を行うつもりだった。
しかし明治八(1875)年に朝鮮事変が始まると、政府側からの懇願で、黒田(注・黒田清隆)が大使、自分が副使となって朝鮮に赴くことになり、やむをえず、先収社は解散することになった。
そのとき、純益金が四万円ほどあったので、それをすべて関係者に分配し、自分は朝鮮事変の決着をつけてから、明治九(1876)年にイギリスに行った。
イギリスでは経済関係の調査を行っていたが、その最中の明治十一(1878)年に、大久保が暗殺されたというので政府から呼び戻された。それ以来、ついに外務省にはいり条約改正の仕事に尽力することになったのであるが、明治初年の財政は貧乏所帯のやりくりで、その困難さは、なかなか言葉で言い尽くせるようなものではなかったのである。」
以上が世外侯爵の追憶談である。侯爵はこの追憶談を語られてから九日目の、一月二十六日に脳溢血を発症されたのである。侯爵が、複雑きわまる財政談をされたのは、あるいはこれが最後だったかもしれない。この談話は明治初年の財政情勢について将来の人々の参考になることもあるかもしれないので、ここに大要を書き留めておいたのである。
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