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百七十七  群書索引 広文庫(下巻104頁)

 大正二(1913)年一月九日のことだった。文学博士、物集(もずめ)高見翁が、私の一番町宅に突然やってきた。そして諄々と語ったのは次のようなことだった。(注・わかりやい表現になおした)
 「自分は長らく帝国大学の国学教授の仕事をしてきたが、明治十九(1886)に伊藤博文公爵が憲法制定のために日本の風俗習慣を調査しようとしたとき、その関連の書物や、そこに記載されている事項を探すのが困難であるという状況について聞き及んだ。そのとき、強く奮起する気持ちを感じて、日本の群書索引の編纂を思い立ったのである。
 それは、たとえば、牛乳に関するさまざまな故事来歴を調べたいと思ったときに、仏経典の中にある、釈迦が牛乳を飲んだことなどをはじめとして、牛乳に関することが出ている書籍の原書名と、それがどのページに出ているのかを一目瞭然に示すことをめざすものである。
 しかし、その原書名を明らかにすることができても、その書物が世間にあまり流布していなかったり、またはすでに消滅して現存しないということもあり、その場合は参考にすることができないわけで、索引があるだけでは用をたさない。
 よって、さらに「広文庫(注・こうぶんこ)」というものを編纂することにした。そこでは、たとえば牛乳については、これこれの書物に、かくかくの記録がある、というふうに、必要な箇所を抜粋することにしたのである。
 この広文庫は、一冊につき二万六千字の原稿が千部にまで達した。つまり、二千六百万字の大部になったのである。(注・参考までに、現在の新書サイズの本は一冊につき10万字が目安といわれている。つまり広文庫は新書で約260冊の分量ということになる)
 このような大部のものは、いまだかつて例を見ない。これまでの日本において、浩瀚(注・こうかん。書物が大部であること)な四大著述と呼ばれていたものは、

第一に、滋野貞主が、仁和朝の時代(注・正確には9世紀前半の淳和天皇の時代である)に編集した「秘府略千巻」現在は完全に消滅した(注・完全に消滅したとあるが、写本が二巻のみ現存しているようだ)、

第二に、徳川光圀編纂の「礼儀類典」(注・引用書目233収載項目は234の朝儀公事にわたり全515巻)、

第三に明和時代(176472)の山岡明阿(注・山岡浚明(まつあけ))が編んだ「類聚名物考三百六十巻」、

そして最後に、屋代弘賢の「古今要覧六百九十巻」である
 

 だが、広文庫は、この四大著作を全部合わせたよりも、もっと浩瀚なものである。

 さて、この群書索引と広文庫は、最近になってようやく脱稿することができたが、それを出版するためには多額の金が必要なので、これまで編纂のために参考にしてきた書画や古器物を売却してその費用に充てるつもりである。京都の林新助、世にも頼もしい道具商であると聞いたので、あなたの紹介をもらって彼に面会したいと思う。そして、これらの品物を売却する目処を立て、一日も早く、ふたつの書物の出版事業を完成させたいのである。」
と言われた。
 私は、翁が独力で、長年にわたってこのような大事業に従事したという気概に感じ入った。またその五尺に満たない(注・150センチ以下)小柄な老人の儒学者が、よぼよぼしながら自著出版のためのわずらわしい俗務に奔走しているのを見て同情する気持ちが湧き起こった。
 そこでさっそく林に紹介状を書いた。聞くところによると、翁の所蔵品は約四百点ほどで、なかには好古的参考になる貴重な品物もあるということなので、できるだけことがうまく運ぶようにと希望しておいた。
 さて、この日の同翁の話では次のようなこともきいた。
 「今日にいたるまで、日本では群書索引のようなものがなかったために、ある故実(注・昔の儀式・法制・作法などの決まりや習わし)を調べようとしても不便きわまりなく、非常に遺憾なことが多かった。
 たとえば、かつて穂積陳重博士が、民法上で隠居について考証しようとしたとき、日本古来の法令式目を参照しようとして材料を探したが非常に困難なことだった。そこである日自分に相談があったので、以前に調べてあった「隠居」の項目を博士に見せたのである。博士はその幅広い調査に驚き、自分でこれを調べていたら半年以上もかかることが、わずか五分で明らかになったととても喜ばれたのである。
 今や、東京の図書館に出入りする学生や学者の数は一日平均で三千五百人程度だと思うが、三千五百の読書人が、かりに一日二時間を読書に費やすとすると、七千時間になる。この七千時間を有効に費やすか無効に費やすかで能率に大きな違いが出るが、現状では群書索引がないので、当てずっぽうで手当たり次第に書籍を探しても結局答えに行きつかないということが多々ある。
 もし索引が出版されれば、それによってあらかじめ目標を定め、調査の鍵を握ってから図書館に向かうことができるので、簡単に用を済ませて読書の時間を有効に使うことができるわけだ。われながら、これは社会にとってかなり有用なものなのではないかと信じるのである。」

 
 それからおよそひと月たち、物集翁が再び私のところにやってきた。そのときには、群書索引の「コ」の部と、「キ」の部を持参し、それらについて自ら説明してくれた。

 なるほど精密な調査ぶりで、この編纂にはさぞかし苦労されただろうという思いを深めた。
 私は、広文庫と群書索引の出版について気づいたことを述べ、かつて「大日本史」のかな文翻訳を出版したことがある安藤守男氏に相談してみたら、よいアイデアが出るかもしれないと思い、翁を安藤氏に紹介した。

 出版までには、いろいろな経緯もあったのであるが、その後相談が進んだとみえて、翁の生前だったか死後であったかは私は正確なことを知らないものの、とにかく翁の大著が刊行されたのである。(注・大正5~7年にかけ、翁の生前に全20冊で刊行された)


 この書物が、読書界に大きな利便を提供していることは私にとっても非常にうれしいことであるから、それが出版されるにいたる前に、翁からじかに聞いた編集についての苦心談の一端をここに記述して、今後の参考にしてもらおうとする次第である。


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