百七十六 銅像に就ての所感(下巻101頁)
東京に初めて建てられた銅像がはたしてどこのものであるのか、私ははっきりとしたことを知らないが、明治二十四、五(1891~92)年ごろに九段の招魂社の社殿前に建立された大村益次郎氏のものはかなり早いほうだっただろう。
その銅像は、大熊(原文「大隈」)氏広氏の製作によるものだが、私は明治二十二(1889)年の秋、ヨーロッパから大熊氏と同船で帰国したので、この銅像製作の最中にはしばしば氏と面会して製作に関する苦心談をきいたことがある。
大村氏には満足のいく写真がなかったので、氏の知人や親族によってその容貌を研究したそうだが、非常に額が長い人で、眉毛を中心にその上下がほとんど同じ長さだったという。銅像の片手に双眼鏡を持っているのは、九段の高台から彰義隊の立てこもっていた上野方面を観望したときの姿なのだそうだ。
その後大熊氏は、福澤先生の座像も作られた。このときは私も共同世話人のひとりで、銅像ができあがったとき大熊氏から、先生の容貌が普通の人とはかなり違っていて写実をするうえで非常に扱いにくい顔だったという理由も聞かされたが、とにかく先生の気に入らなかったので、私も非常に当惑したということがあった。
その後いろいろな場所に建立された銅像の中には、だんだんに出来のよいものも出てきたようだが、日本では、製作する者も製作させる者も概して不慣れなために、これは、と感心するようなものが非常に少なかったものだった。
しかし、大正元(1912)年十月十二日、品川の海晏寺で除幕式を行った梅若実の銅像は、それまで東京の各所に建てられた銅像の中で、その姿はほとんど無類の上出来だった。それもそのはずである。翁が右の手に扇を持ち今や踊り出さんとするところであり、長年鍛えに鍛えたその芸術的な態度が普通の人には及びもつかないものだったからだろう。
この銅像の建立については、私も発起人のひとりとして当日式場に列席した。その高さは五尺四寸(注・約163センチ)で、台石を合わせたら十一尺(注・3.3メートル)だった。その台石の背面には股野琢氏の撰文(注・文章を作る)で、次のように刻印されていた。
翁少壮遇世変 独力維持能楽 演習弗懈(注・弗懈=怠らず) 遂克挽回頽勢 其功其技 古今希匹 因同志胥謀(注・胥=助ける) 茲表彰之云
本像の製作者である沼田技師が語るところによると、この銅像は当然翁の没後に設計したものだが、万三郎の姿が翁にほとんど生き写しなので、それをモデルに三回ほど写しとり、その容貌体格はもちろん、袴のひだにいたるまで、生前の翁そのままを表現することができたことは非常に幸せだったということであった。
とにかく、銅像というものはのちのちまで残るものなので、姿かたちが似ていることだけに囚われて、実物よりも劣っている物体を遺してしまうのは、故人にたいしてまことに気の毒だ。上野台の西郷の銅像なども、ふだんの生活の様を写そうとする意匠に囚われたばかりに、陸軍大将だったこの人の威厳を顧みることがなかったのは、おおいに考えものではなかろうか。
また、数年前に、目黒の恵比寿ビール会社の構内に馬越恭平翁の大銅像を建設してその除幕式が行われたとき、清浦奎吾伯爵が演説をして、「自分は従来銅像を好まぬ一人である。東京市中に於ても、建設その場所得ずして、頭に鳥の糞が掛かっている銅像を見受け、思わず顰蹙(注・ひんしゅく)するものがないでもないから、後来、銅像建設を発起する人々は、かような失態を招かぬよう、大に注意しなくてはなるまい。もっとも今度の銅像は当社構内に建てられて、その保護についても、大に他と異なるものがあろうから、これはまったく例外として、その他一般の銅像はなるべく必要やむべからざるものに限り、粗造濫設を戒めざるべからず」という趣旨を述べられた。
私は、清浦伯爵の意見に同意すると同時に、銅像製作者に対してさらに希望したいことがある。先ごろ、陸軍省構内に建設された山県有朋公爵の騎馬銅像の鋳造の前に、その石膏の段階で、それぞれが所見を述べよということで、委員となっていた人たちが工作場に集合した。その際、故人の特徴を表現しようとするあまり、かえってその欠点がきわだっていることがなきにしもあらずだったので、なるべく長所や美点を目立たせるようにして、似姿とともにその品格風貌を伝えるよう特に注文をしておいたが、これ山県公爵のものにとどまらず、銅像一般についてそのような点に留意されるよう願っている。
というのも、あるところで背の低い実業家の銅像を見かけたことがあり、小高い台の上に載っていたので、下から仰ぎ見るとまるで奇形の大黒天を見るようで、このような銅像ならむしろ作らないほうがよいのではないかと思ったことがあったからだ。
日本では昔から、碑文によって故人の遺徳を称揚するという方法がある。中途半端な銅像を作るよりも、石碑のほうがかえって崇敬の念を深くすることがあるということは、かの清水谷公園内にある大久保利通卿の記念碑などがよい例である。
私は、将来の参考のために、ここにいささかの所感を披歴する次第である。
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