百七十四 小石川後楽園に就て(下巻94頁)
明治天皇の御大葬に参列するためにフランス政府から派遣されたルボン将軍は、明治初年には陸軍顧問としてわが国の軍制に貢献するところがあったそうだ。また、政府が小石川の水戸徳川邸に砲兵工廠を設置しようとして後楽園取り壊しの評議があったとき、ルボン将軍が自国の例をひいて大都市に名園が必要な理由を説き、とうとうその提案を中止させたという伝説がある。
だからかもしれないが、御大葬の使節として来日すると、さっそく後楽園に出かけたそうだ。そして昔のおもかげの残る部分だけを撮影し、帰国後に日本庭園の典型としてフランスで紹介するつもりだったようだ。
ところで私は、大正元(1912)年十月二十六日に、所用で向島の水戸邸を訪問したが、そのときついでにルボン将軍のことを手塚家令に話してみた。
すると家令は、「それで思い出したが、先ごろ陸軍省から、後楽園の旧園に関する記録や古記録を借覧したいと申し込んできたので、水戸の彰考館から同園関係書類を取り寄せて陸軍省に回付したが、それが二、三日前に戻ってきて、そのまま手元の留め置くように言われたので、ためしに一覧してみると、多数の書類の中に、元文年間(注・1736年~1741年)の、水戸藩臣の額賀信興(注・ぬかが)の手になる『後楽園記』というものがあった。それは当時の同園築造の状況をこまかく記した文書だった」ということだったので、ここに、その大要を記すことにする。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、適宜句読点をつけた)
「後楽園記事」
威公【水戸藩祖頼房卿】かつて山水を好ませ給い、江府(注・こうふ。江戸のこと)の御邸に、山水を経営せんとおぼしめし給い、徳大寺左兵衛に命ぜられ、よろしき地形を選ましめ給うに、小石川本妙寺、吉祥寺の辺、山水の営み、しかるべき地形なりといい、すなわち将軍家へ請わせられければ、台命(注・たいめい。将軍などの命令)ありて、やがて本妙寺を丸山(注・現在の巣鴨)へ、吉祥寺を駒込へ移させ給いて、本藩の御邸となる。その時この地、数百年の喬木(注・高い木)生い茂りて、人力の及ぶべからざる形勢なり、そのうえ大猷(注・家光)公いろいろ御物数寄(注・ご注文)ありてできたる御園なれば、威公にも甚だ御心を尽くさせ給いて潤色(注・整備)せさせ給い、自然のことをよろしとし、古木を伐らず、凹凸の地形に任せて、山水を経営す。伊豆の御石山、その他の山々より、奇異なる大石を取り寄せ遊ばされ、これをもって荘厳(注・飾り)となし給う。これもとより、大猷公の御心なるべし。地形によって、まず大泉水を開く。大泉水より東の方は、御屋形(注・館)に当たる。喬木繁茂して、棕櫚山に続きて、御屋形の見隠しとなれり。南に棕櫚山、木曽谷、竜田川、西行堂、桜馬場。西にまわりて、一つ松、硝子の茶屋、大井川、西湖堤、渡月橋、丸や、小盧山、観音堂、音羽滝、琉球山、大黒堂、得仁堂、通天橋、円月橋。北に当たって遠山あり、松原、福禄寿の堂、不老水、八つ橋、水田。そのほとり、稲荷の社、文昌堂、小町塚、河原書院、御能舞台あり。北西の隅に菓木の御園、内に庚申堂、萱御門の外、水車の楼あり。楼上に小廬山へ懸かれる水の筧(注・かけい)あり。大泉水に長橋かかれり。橋より西に蓬莱島、島の中に弁才天の祠あり。すべて園中の山水、喬木、老石、自然の形勢を備えて筆力の尽くすべきところにあらず。ひとたびこの御薗に遊ぶときは東西南北を分かつものなし。実に千山競秀、万壑争流(注・壑=谷)というべし。東福門院(注・徳川秀忠の五女で後水尾天皇の中宮)聞き召し及ばせられ、図に写して献ぜらるべき命これあり、進上おわしましければ、やがて後水尾院にも叡覧ましまして、御感斜ならず(注・感激もひとしおで)、これより天下の名園となる。大猷公の仰せに、水などは御心次第に引かせらるべしとて、親(注・はじめ)から御泉水の御指図どもありてければ、威公にもかたじけなく思し召されしが、義公(注・水戸藩二代藩主光圀)もまた、その御志を継がせられ、潤色もなし給えども、一木を伐り、一石を動かし給うことはなかりける。明の遺民(注・明国の遺臣)朱舜水、御園の名を選びし時、宋の范文正公の「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」の語を採りて、後楽園と名づけられ、御屋形より御園への唐門にも、右の三字を書して、扁額となせり。得仁堂、文昌堂、円月堂の類は、義公の御経営なり。ことにより改めさせ給いしものあれども、一木なりとも枯れたるは、年々御植え添えこれあり、大木を伐らせられたることは、かつてこれなかりけるぞ。松は別して御当家にいわれあることなれば、一枝をも伐られ給わざりけり。
小石川後楽園は前記のように、フランスのルボン将軍の忠告によって、さいわいにも破壊を免れたという説がある。しかし一方で、山県有朋公爵が、例の築庭数寄のためにその破壊を惜しみ、保存することが決定したという説もある。
私はいつかそのことを公爵に質問しようとして、ついに果たせなかったことが残念だが、いずれにしても、歴史的な名園が一部分だけでも東京に保存されたことは、まことに喜ばしいこと(原文「欣懐の至り」)である。
震災後に、はたしてどのような様子になっているか、その保存や、利用について、今後識者が大いに考えるべきことであろう。よってこの機会にここに言及した次第である。
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