百七十二 光琳月豆幅の余興(下巻87頁)
大正二(1913)年五月二十五日のことだった。下條正雄、朝吹英二の両氏が、大阪府知事の高崎親章氏の依頼で、大阪天満の天神社内に貴賓館を建設する計画賛助のため、都下の紳士数十名を築地瓢家に招請した。その席上、私は参加者に向かって緊急動議を提出した。
「数日前に両国美術倶楽部において道具入札会があった。そのとき、今夕出席している馬越恭平君が、光琳筆の有名な、月豆の一軸を獲得されたことは、まことに慶賀の至りである。元来、豆は馬の好物であるから、馬越大人が月豆の幅を手に入れたのは、まことに当然のことではあるが、私が探知したところによると、この幅の獲得には競争者がいたのである。それは古河男爵家の代表の中島久万吉男爵であった。男爵は、古河家のためにこの幅を得るため大枚五千円で入札し、これでもう月下の豆は、間違いなくわが手中のものであると安心していた。
一方、馬越大人は、豆と見ては、なんの猶予があろう、この幅をぜひとも獲得せよと、出入りの道具商である山澄力蔵に命じ、その相場を尋ねた。すると山澄は、まずもって三千円くらいではないかと言う。
そのとき大人は、頭を左右に振り、いやいや君、それは、時勢遅れだろう、光琳の豆は、満州の豆(注・「満州大豆」は当時の満州開墾の主力農作物だった)とは違い、天下唯一の豆である。自分は前々から光琳の絵を愛して、河秡の図、紫式部の図など、「光琳百図(注・尾形光琳に私淑した酒井抱一が光琳百年忌に編集し出版したモノクロの絵画集)」にもなった優品を持っているが、それらはどれも真面目な図柄なので、かねてから、草体(注・硬派でない、の意か?)の画の一幅を欲しいと思っていた。この月豆の図こそ、まさに自分の理想にかなっているばかりでなく、「光琳百図」の中で、紫式部と並んで掲載されている(注・刊行された「光琳百図」の同じ頁に印刷されている。下の参考写真を参照のこと)もので、離れるべきでない姉妹幅なのだ。ぜひとも、確実に落札できる札(原文「やらずの札」)をいれたいということで、最初から五千円と決め、その上にさらに端数をつけ、結局五千百十円で入札した。
開札の結果、豆はわずか十円の高値をつけた馬大人の手に落ちた。このような深い情を持つ知己に身請けされた月豆は、さぞかし満足したことだろう。
それにしても、わずか十円の差でこの名幅を勝ち得た『馬運長久』にいたっては、同好の友を招き披露の祝宴を催すだけの価値があるのではないかと思うが、満座の諸君にもご同意いただけるのではないだろうかどうだろうか。」
と述べたのである。
すると一同が大賛成したことはもちろんのことだったのだが、このなかには杉山茂丸君のような大豪傑もおり、「自分は月豆問題以外にも、馬大人に対して晩餐を請求する外交問題を抱えている」と言い出す。
ここで返事にもたもたしていると、旧悪露顕か、はたまた新罪発見か、いずれにしても事は面倒だと見て取った馬大人は機先を制して一座を見回し、「諸君、よろしゅうげす」と快諾したのであった。その期日は六月十五日と決まった。
さて六月十五日がやってきた。馬大人は前回の出席者十数人のほかに、十円違いで月豆競争にしくじった中島久万吉男爵も招待していた。会場は同じ瓢家で、寄付き(注・はいってすぐの部屋)の床には、光琳の有名な「河秡の図」を掛けてあるほか、馬越家の秘蔵中の秘蔵である、師宣(注・菱川師宣)と長春(注・宮川長春)の風俗絵巻が陳列され来客は魂を奪われた。
そのあとには、本席に光琳筆の「月豆の図」が飾られるという、実にいたれりつくせりの待遇であった。来賓の代表として、金子渓水(注・金子堅太郎)子爵は、懇篤な謝辞を述べた。また大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)翁は、
友どちのまるきまとゐに枝豆の さやけき月を見する掛物
という狂句を披露した。その後、花柳小夏の手踊りなどがあり、めでたく月豆会は終了した。
そのとき馬大人が、益田紅艶(注・英作)に次のようなひとことを洩らされたのである。
「東京は真の闇でげす、月が出ているのに、アノ豆が誰にも見えませんよ」
つまり、世人はみな盲目で自分ひとりが具眼である、と言うに等しい啖呵を切ったわけだ。
そこでこの晩に招かれた客側が七月二十二日に返礼の会を開くにあたり、その幹事を引き受けた私と、益田紅艶、野崎幻庵の三人で協議のうえ、加納鉄哉老人に釈迦如来が緋の衣を着て意気揚々と馬にまたがり、まわりには十六羅漢が群衆している絵を描いてもらった。その釈迦如来の容貌は、当夜の主賓である馬大人にそっくりで、群衆の羅漢もまた当夜出席する人々の顔をしているのである。豆の枝と掛物をかついで先導している眉の太い人は、間違いなく山澄力蔵で、ひげに鯰の特徴があるのは加藤正義尊者、土左衛門のように太っているのは益田紅艶童子、頭髪がまばらなのは野崎幻庵、金縁の眼鏡をかけているのは箒庵(注・高橋義雄)というような図柄であった。しかしはなはだ不思議なことに、この絵では馬上の釈迦だけに目があり十六羅漢は全員盲目なのである。
やがてその理由が明らかになると、主客ともに顔を見合わせて抱腹絶倒するしかなかった。無眼の羅漢を代表して金子渓水(注・堅太郎)尊者の挨拶があり、ついで近藤廉平尊者がこの新作の一軸を馬大人に贈呈した。
余興には、清元の「彩色間刈豆【いろもようちょっとかりまめ】」を語らせ、晩餐の献立も豆にちなむなど、ずいぶん薬の効きすぎた趣向だった。
ところで、わずか十円の差で月豆を落札できなかった中島男爵は、むしろその幸運を祝する意味で、八月十五日すなわち仲秋の夜を選び会を催した。
そこにおいては、古河家が最近譲り受けた、水野子爵家伝来の元暦万葉十四冊が参加者一同のために展示された。とかく下品になり下がることの多いこの種の会合が、もっとも上品な形で千秋楽を迎えることができたことは、まことにありがたき幸せだった。
この会合は、「月豆会」という名で当時非常に有名なものだったので、ここにその大要を記しておく次第である。
◆参考:国会図書館デジタルコレクション「光琳百図」より
(月豆の図と紫式部が同頁に掲載されている )
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