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百七十一  名器調査と雲州土産(下巻83頁)

 私は大正二(1913)年五月十一日京都を出発し、雲州(注・出雲国、現在の島根県地方)への旅に出た。その途上で、

  天涯新樹雨余稠  晴日風薫欲麦秋  笑我一禅参白足  青山影裡入雲州
  (
注・稠=茂る)

という一首を作ったことから、そのときに旅行記を「入雲日記」という題にした。旅行中のこまごましたことは省略し、なぜ雲州を訪問することにしたのか、その理由を今回は記してみたいと思う。
 明治四十五(1912)年初めから私が閑雲野鶴の(注・仕事をせず自由な)身となったひとつの理由は、東山の時代(注・足利義政の時代)以来、幾多の好事家が何度も試みながら、ついぞ完成したことのなかった全国の名器の調査をするということだった。
 この事業を完成するためには、現在日本の国中でもっとも多くの名器を所有している松平直亮(注・なおあき)伯爵の宝蔵でその調査の方法を研究し、いかにして実物を撮影するかということや、いかにして色彩を模写するかということ、また、いかにしてその付属品などをもれなく記述するかということを試験的にやってみるしかないと思った。そこで私は、松平伯爵の許しを得て、まず雲州の宝蔵を拝見することになった。
 松江には速記者の山口鉄市を伴い、松平家宝蔵主任である故米村信敬氏らの助けを借りて、器物のなかでも有名な油屋肩衝をはじめ、大名物、中興名物(注・大名物は利休時代までに知られた名物、中興名物は小堀遠州が選定した名物)の茶入や茶碗の数々を拝見した。絵画では梁楷の李白、徐熈の梅鷺、門無関の布袋などの多数の名品があった。
 これらはいずれも有名な不昧公の遺愛の品で、中興名物の茶器だけでも四十点余りある。大名物や中興名物の書画、器具を合わせれば、その数は実に百点余りになるだろう。それは、ひとつの家で、全国の名物の一割以上を所持していることになるのである。
 よって、もちろん一朝一夕で全部を見るわけにはいかない。拝見は三日にわたり、それで約三分の一程度を調査し、これで幸いにも雲州訪問の第一の目的を果たすことができたのである。
 雲州松平家の所蔵名器がこのように豊富なのは、言うまでもなく、不昧公の熱心な注力(原文「丹精」)によるものである。
 そもそも公は、徳川家康の子(注・次男)である越前秀康(注・結城秀康)の、三男直政から六代目の天隆公【宗衍むねのぶ】の第二子である。宝暦元(1751)年の生まれで、諱を治郷といい、一々斎不昧、未央庵宗納と称された。
 明和四(1767)年、十七歳で襲封するが、そのときの松江藩の財政は極度の窮迫に陥っていた。父公が隠居しその職を新しい藩主に譲ったのも、結局のところそのせいだったので、不昧公はただちに藩政立て直しを志すことになった。そのために朝日丹波茂保を抜擢して後見、兼、執行役にし、大改革に当たらせた。
 丹波は非凡な財政家であった。華奢を戒め、殖産を勧め、七万人余りを動員して、佐陀川に幅二十間(注・一間=約180センチ。20間=約36メートル)、長さ二里(注・約8キロ)の運河を造り、湖水が北の海に注ぐようにすることで、六万石の新たな耕田をひらいた。
 また幕府が経営していた日光人参栽培所からその秘法を習い、雲州人参の生産に成功した。それを長崎に送り、シナ貿易において巨額の利益を占めたのである。
 このようにして不昧公は着々と多くの成功をおさめ、在職三十年余年のあいだに、天下屈指の内福(注・みかけよりも豊かな)大名になった。五十歳で家督を子息の月潭公(注・松平斉恒)に譲り、六十八歳で薨去するまでの隠居生活十八年間は、茶事三昧に暮らした(原文「消光」)ばかりでなく、かねて蓄積してきた財力で名品名宝の買収につとめた。まるで、夜の庭でガマガエルが蚊をパクリパクリと呑みこむように、公の魔力に引き付けられた天下の名器は、争うように公の口へと向かい腹を満たしたのである。
 これが、今日、松平家に現存している不昧公の遺愛の品なのである。
 こうして私は、それらの品々を拝見して、名器の調査についての方針を決定した。そこから、松江市外の菅田庵(注・かんでんあん)やその他の茶室を次々に訪れたり、出雲大社に参拝したりなどして、漫遊の日程を重ねた。
 ある晩には、旅宿の皆美館で、例の安来節と、どじょうすくい踊りも見聞した。安来節には、

  嫁が島外に木はない私が心いつも青々松ばかり
  安来せんげん名の出たところ、社日桜に戸神山、戸神山から沖見れば、いづくの船とも知らねども、せみのもとまで帆を巻いて、ヨサホヨサホと鉄つかんでかみのぼる

というのがあって、この「鉄つかんでのぼる」というのは、不昧公時代の製鉄工業の盛況を詠み込んだものだそうだ。
 また、この土地で行われている、どじょうすくいという踊りは、いかにも素朴で愛すべきものである。ざるで、どじょうをすくう身振りをして、

  私や出雲の浜さだ生れ朝の六つから鰌(注・どじょう)や鰌

といいながら踊るのである。これにはいろいろな替え歌がある。
 私はいつも地方に旅行するたびに、必ずその土地の俗謡を聴くことにしているが、この安来節とどじょうすくいは、東北地方の追分節に匹敵するもので、その他のいろいろな地方のものと比較して、はるかに群を抜いていると思う。これを東京で宣伝したら、かなり興味を持たれるのではないかと思い、帰京後に友人に語り伝えたのだが、それから数年後には安来節が東京に進出し、茶屋小屋から浅草あたりの小劇場にいたるまで、いたるところで唄いはやされるようになった。そして、しばらくのあいだ大いに流行したのである。マサカ、私が宣伝したから、というわけではあるまいが、このことについては、いささか伯楽(注・
すぐれたもの、特に名馬を見抜く能力のある人のこと)の名誉を担ってもよい理由があるのではないかと思っており、自己満足している次第なのだ。


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