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百七十  顔輝の寒山拾得(下巻80頁)

 私は、大正二(1913)年五月十日雲州松江に出かけるついでに、その日に臨時で展覧された神戸布引の川崎美術館を訪問し、他の陳列物とともに同館の第一の重宝である、顔輝筆、寒山拾得二幅対を再見するという好機会を得た。その日川崎美術館では、別棟である長春閣の正面の床にその名軸が掛けられていた。
 私は明治二十六(1993)年に当館で初めてこれを見て以来二十年余りのあいだ、人物画を見るたびに必ずこの掛物を連想したもので、宋人の人物画の白眉として寝ても忘れることができない(原文「夢寐(むび)之を忘るる能わず)ほどである。今回参観したというのも、まったくのところ、これを再見するためだった。
 そもそもこの二幅対は、言うまでもないが東山御物で、その後織田信長に伝わった。
 信長はひごろからこれを愛玩して座右から離すことがなく、近侍の者に向かって、「この画中の人物は何やら物を言いそうなり」と語られたことがあった。あるとき、森蘭丸が、信長の癇癪(原文「癇癖」)が極度に高まったのを見て、「殿は、かの画像が何か物を言うようなりと仰せられたが、昨夜私が、かの幅の前を通りがかるや、画中に声あって、近頃殿の御短慮もってのほかの御事なり、かくて御用心これなきにおいては、いかなる変事の出来(注・しゅったい)も測られずというかと思えば、そのまま沈黙いたし候」と諷諫(注・遠回しにいさめる)したところ、信長はこれをきいて激怒し、「余の愛玩の恩も忘れ、無礼な諌言、聞き捨てならず、汝すみやかにかの画像を引き裂いて、火中に投ずべし」と激しい表情と怒声で命じたので、蘭丸は「仰せ畏まりぬ」と、ただちにかの画像のところへ向かったあと、また元に戻り、「ただいま、かの画像を引き裂かんと存ぜしに、彼らは殿の御威光に恐れ、もやは何事も申し出ざれば、ひらに御容赦相成りたし」と詫び入ったので、信長もたちまち機嫌を直し、画像は危うく一命をとりとめた、という伝説があるそうだ。
 これはもちろん好事家の作り話(原文「戯作」)であろうが、東山御物の中でもこの幅が昔から有名だということは、こんな話が伝わっているというだけでわかるというものだ。
 その後信長は、今大阪城のある石山城を根城に十三年間彼に対抗していた本願寺の顕如上人と講を結ぶにあたり、この幅と、かの有名なる一文字茶碗、そして古金襴の三点を贈り、修好(注・親しくつきあう)の意を表した。
 本願寺においては、大切な寺宝として代々守り続けていたが、安政年間(18551860)に西本願寺の困窮が極まったとき、当時、同寺の世話方で、石田小十郎あるいは小兵衛という乾物屋、通称「大根屋」として知られた者が、金千両の身代わりの品として本願寺からこの幅を預かることになった。
 ところで、そのころ道具にかけては「大鰐」として名高かった京都所司代の酒井忠義がそれを聞き込み、人を介して何度も大根屋に所望したそうだ。しかし、預かり物なので、ということで応じず、本願寺にとっても手放し難い事情があったので、維新の前にはそのままに経過した。
 しかし明治の初年に大根屋の代替わりがあり、この幅の処分を本願寺に迫ったが、当時のことでもあり本願寺も金千両を賠償することができず、ついに世間に流出することになってしまった。
 そのようなわけで、池田某の手に渡っていたものを、明治十七(1884)年に先代の山中吉郎兵衛が引っ張り出してきて、まずは藤田伝三郎男爵に勧めた。しかし男爵が見向きしなかったので、貿易商会(注・起立工商会社のことであろう)の若井兼三郎氏が仲介を引き受け、松方海東(注・松方正義)公爵その他に当たってみたが誰も応じなかった。
 そんなときに川崎正蔵氏がその写真を一見し、狩野探美に鑑定を頼んだところ、探美が古今未曾有の逸物なり(注・いまだかつてない逸品だ)と証明したので、一も二もなく買い求めたのである。そのときの代価は、わずかに千五百円であったという。
 川崎氏はそのころ築地に造船所を所有し政府筋に用向きが多かったので、もしこのことが貴顕(注・身分の高い人、政府高官など)の耳にはいり、犬骨を折って鷹に取られては一大事だということで、それから三年間極秘にして誰にも見せなかった。
 しかしいつしか同好者のあいだで評判になり、川崎氏ももう隠し立てすることができなくなり、この名幅が手にはいったのは美術の神の引き合わせなので、どのような貴顕の懇望があっても断じて徴発に応じることはできない、という条件つきで、ある日、築地邸に賓客を招いてはじめて披露したのだそうだ。
 この二幅対は、顔輝筆のなかでは試金石というべきもので、画面も非常に綺麗であり、これに対面すると、絵の中から抜け出してきた、にこにこ顔の人を迎えるような気分になる。私が二十年余り前にこの幅を見たときには、かなりの大幅だと思っていたが、今回再見してみると、巾は三尺内外(注・一尺=約30センチ。実物の大きさは、じっさいには、二幅合わせた横幅が約85センチ、縦130センチ弱である)で、いたって小幅であることに驚いた。
 私の経験から言えるのは、名画というものは実物よりも大きく見えることがよくあるということだ。最初に見たときに大幅だと思ったもので、再見したときに意外と大きくなかったときは、たいていの場合、名画である。道具でもなんでも、名品と言われているものには概してこの傾向が見られるようだ。
 目下(原文「方今(ほうこん)」、世に知られている宋画は、いったい何点あるのかわからないが、人物幅において、この顔輝の右で出るものがあるとは思えない。徽宗皇帝の桃鳩図に相対し、かたや人物、かたや花鳥の、双絶(注・この上なくすぐれた二つのもの)であるから、この機会に、私の感想を発表した次第である。(注・寒山拾得図は現在は東京国立博物館蔵の重要文化財。徽宗皇帝「桃鳩図」は個人蔵で国宝)


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