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百六十九 石黒子(爵)談片(下巻76頁)

 子爵、石黒忠悳(注・ただのり)翁は、明治、大正、昭和の三朝歴事(注・三代の主君に仕えた)の長老である。
 日清戦争のときの陸軍軍医総監として、広島の行在所(注・あんざいしょ。天皇の外出時の仮御所)で奉仕した経歴も持つ。明治天皇陛下の御逸事に関して、翁ほど資料を持っている人はいないのではないかと思う。
 あるとき翁は次のようなことを語られた。(旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)
 「明治天皇陛下の御倹徳については、さまざまの美談がある中に、天皇崩御後、森林太郎(注・鷗外)氏が御所(の)衛生のことを担任して、御座所の跡片付けをなしたので、自分は森氏に依頼して、御学問所の欄間の紙と襖の腰張とを、少々頂戴したのである。頂戴といっても、もとより伺い出でたわけではなく、ただお取り捨てになるべき廃物を、係の者より手に入れたまでであった。聞くところによると、御座所の欄間は、皇居御造営後、ただ一度御張替えになったのみだということで、年経るままに真っ黒く煤けているので、係の者より時々張替えのことを伺い出づれば、陛下はいつでも、それには及ばぬとのみ仰せられて、長年張り替えなかったのであるそうだ。さて大正二年には自分も古稀になったので、亡父が出張中に自分の誕生した福島県伊達郡柳川村に罷り越し、いささか懐旧の情を慰めたついでに、土地の父老を集めて一場の講話を試みた。その講話前において、同村の小学校を訪いたる帰途、その村中で一番貧乏なる百姓家というのをたずねて、その障子の一小間を切り抜き、張替料にとて二十銭銀貨を与えて持ち帰り、その百姓家の障子紙と、かねて持参した、かの御学問所のとを比較するに、百姓家のほうがむしろ綺麗であったから、今さらながら恐れ入り、講話中、このふたつの紙を取り出して、これを来会の父老に示しつつ、陛下が世界第一御倹徳の帝にましますことを物語り、独逸(注・ドイツ)では帝室費として、一年に一千八百万円を計上され、その他欧州諸国の君主は、みな巨額の帝室費を消費しているのに、わが帝室費の年額は、僅々四百万円である、しかして国民が水火難災厄の場合に、恩賜せらるる金額は、かえって欧州の帝室に勝っているのは、畢竟、陛下が親から倹徳を守らせ給うおかげであるから、国民は肝に銘じて、その御恩徳を忘れてはならぬと述べたところが、父老の中には、声を放って泣き出した者もあった云々。」

石黒翁の談話中には、さらに次のような一節もあった。

 「日清戦争中、広島行在所において、旧八月十五夜の晩、自分が御前に伺候したところが、天皇陛下には至極の御機嫌で、自分に向かわせられ、今夜は十五夜であるが、十五夜に月を見るの法を知っているかと仰せられたので、自分はこれという思いつきもなく、御所においては高殿にのぼるか、または窓など開き給いて、御覧遊ばされ候にやと申し上げたるに、陛下は微笑を含ませられて、イヤイヤ月を見るには、苧殻(注・おがら。皮をはぎ取った麻の茎。盂蘭盆(うらぼん)の迎え火・送り火にたき、供え物に添える箸にする)にて茄子をえぐり抜き、その穴より見るものであると仰せられたれば、自分は陛下が御戯れに斯様(注・かよう)のことを仰せられたのだと思い、やがて御前を退下するや、その足にて有栖川大宮殿下(注・日清戦争中に広島大本営にいたのは参謀総長の熾仁(たるひと)親王)を訪い参らせしに、またまた月見の話が出て、ただいま陛下がかくかくと仰せられましたと申し上げたところが、殿下は打首肯せ給いて(注・うなずかれて)それはいかにもその通りである、堂上(注・公家)にては、茄子の穴より月を見るのがならいにて、十五歳にて元服する者は、その茄子の穴より月を見ているあいだに、袖を切り詰めるのが、旧来の慣例なりと仰せられたので、自分は初めて雲上方の月見の故実を承知したのである云々」

石黒況翁は官民の各方面での経歴豊富で、茶道においては、明治初年の茶道復興の黎明期から関与していた先達なので、この方面に関するエピソードは際限なくあるが、それらについては後段に譲ることにする。翁は談論の名手で、ふつうの世間話でもウイット(原文「ウエット」)に富み、ユーモアに長じ、私の記憶の残っているものの中にも、おもしろい談片は少なくない。次のような笑い話もあった。
 「先日明治四十五年、桂公爵の西伯利亜(注・シベリア)経由でヨーロッパ行きしたとき、桂公爵を見送るために新橋ステーションに出かけたら、ある人が、山県公爵は最近とても痩せられそうだから、元老は「ダシ」に使われるから、鰹節のように削られて、痩せてしまうのだと言ったら、その人が目の前に立っている桂公爵を指して、桂公爵は元老でも、あの通り太っているではないかと言うから、桂公爵も「ダシ」に使われるが、アレは昆布ダシだから、煮出されるほど、ますます太るのだよと言ったが、どうだねアハハハハ。」


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