百六十八 乃木大将追懐茶会(下巻73頁)
子爵石黒忠悳【況翁】氏は乃木大将とひごろ親密な交際があったので、大正二(1913)年四月に牛込揚場町帰雲亭において、大将のために心をこめた追善茶会を催された。
床には大将の歌入り書簡を掛け、古銅薄端花入に杜若【かきつばた】を活け、屈輪【ぐりん】大形の香合に名香「初音」を薫じた。茶入は、明治三十七(1904)年の冬、大将が戦地から況翁に送られた敵弾二個を寄せ合わせた中次を使い、茶碗は二百三高地の土で作り、有名な大将の詩である、
山川草木転荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州場外立斜陽
を彫りつけたものを使い、また、旅順攻略のときに使ったという鉄条網の火箸などを組み合わせられた。
況翁が古銅薄端の花入に杜若を活け、手向けの香に初音を選ばれたことには深い寓意があった。
況翁は、乃木大将の最期を、万治年間(注・1658~1661)年間に細川三斎の十三回忌に割腹した興津弥五右衛門に酷似していると見ており、上に挙げた縁故の品々を使うことで、それとなく追善茶会に歴史的な感興を添えられたのである。その興津割腹とは、次のようなものだった。
寛永五(1628)年五月、長崎に到着した安南船が珍しい伽羅の大木を舶載してきた。この時細川三斎は、興津弥五右衛門ともうひとりの相役を長崎に差し向け、その伽羅の大木を買い取らせようとした。
この伽羅には本木と末木があった。伊達政宗の使者が、本木のほうを獲得しようとしたので、興津は、これを我が手に入れようとし双方の争いとなった。
そのとき彼の相役は、香木のような玩物のために過分の大金を投げうっては、細川家のためによろしからず、として、興津とのあいだに意見が衝突した。激しい口論の末、相役は一刀を取り上げ、抜き打ちで興津に切りかけた。
おりしも五月のことだったので、床の間には杜若を活けた薄端の唐銅花瓶があった。興津はそれを取り上げてハッシと受け止め、続いてさっと飛びしさり(注・後ろ向きに飛んでさがり)刀を抜き、ただの一打で相役を討ち果たした。
こうして興津は、目的通り伽羅の本木を買い取り、当時細川の居城のあった杵築に帰り、事の次第を三斎に報告した。主命を果たすためとはいいながら、お役に立つべき侍ひとりを討ち果たしてしまったことに対して、まことに恐れ入る次第であるので、切腹を仰せつかりたいと言上した。
三斎は委細を聞き終わると、主命を重んじて稀代の名香を買い求めたことは、あっぱれの手柄なので、相手の子孫も遺恨を抱かないように余の面前で盃を取らせ、互いに誓言させようとの主命をもって一切を取り計らわれたので、事件はすみやかに落着することになった。
この名香は、細川家では、
聞く度に珍しければ郭公 いつも初音の心地こそすれ
という古歌にちなんで、初音の香と名づけ、それは天下の名香として知られている。
さて興津はというと、その後、寛永十四(1637)年に忠利の旗下に属して島原に出陣し、抜群の戦功をあげて恩賞をこうむるなど、ついに戦死の機会を得ることもなく、心ならずも余生を保っていた。
細川家はほどなく肥後に転封し、忠利がまず逝去し、三斎も薨去し、今では肥後守光尚の世になっていた。
ちょうど三斎の十三回忌に当たり、興津も時節到来と思ったのだろう、万治元(1658)年十二月二日、三代相恩(注・三代にわたって恵みを受けた)の殊勲に対する遺書をしたため、腹一文字に掻き切って、熊本城下の寓居において自尽(注・自害)したということである。
興津弥五右衛門が自刃を覚悟したのは、長崎で相役を討ち果たしたときであったが、主人の三斎の寵遇が厚かったため、ついに三代にわたって仕え、二十代のときから三十年余りがたっていた。三斎の十三回忌を選んで、遅れ馳せながら宿志を果たしたのである。
乃木大将が一死を覚悟したのもまた、あの西南戦争中に軍旗を喪失したときであったということである。しかし大将もまた死に場所を得ることができず、隠忍して歳月が過ぎるうちに、ちょうど旅順の戦争がやってきた。
眼前で多数の兵卒を殺してしまい、愧我何顔看父老(注・乃木の漢詩「凱旋」の一部)の感慨もまた切なるものがあっただろう。
二児の戦死によって、かえって自ら慰められるところがあったようだが、明治天皇の崩御に至り、今こそ死ぬべき時が来た(原文「正に是れ其死を致すべき秋なり)と決心し、ついに宿志を果たしたのであろう。
大将を、興津に比することについては、人物の大小、事態の軽重ももちろん同様ではないが、義のために死を軽んじ、あくまでも所志を達せんとした高潔な心事については、古武士の面目躍如として、両雄を対比して、断じて、千歳の知己(注・生きた時代は違うが、通じるところがある)と言うべきだろう。
況翁は、いつのことにか両者が酷似しているのを見つけた。まず、興津の買い求めたというあの初音の香木を薫じ、また彼の相役の一刀を受け止めたという唐銅の花瓶に擬して古銅の薄端花入を使い、生け花までも同じ杜若を選んだ。
その心配りは、情義と感興とを兼ね備え、名教(注・人が行うべきすぐれた教え)として役立てることもできよう。大正の劈頭(注・へきとう=はじめ)の、一種の出色の茶会であると思われるので、ここにその顛末を記した次第である。
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