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百六十七  乃木大将の殉死(下巻69頁)

 大正元(1912)年九月十三日、御大葬の御見送りのため私は帝国劇場前に出かけた。
 午後八時半ごろに、霊轜(注・れいじ。霊柩車のこと)の御通過を拝観したが、土佐絵の絵巻物に出てくるような装飾した牛がひいていく御轜車の哀しい音と、先頭の笙(注・しょう)、篳篥(注・ひちりき。縦笛)の響きが相和して、言いようもない神々しい光景であった。私は感動のあまり、

   御者の牛のあゆみもなほ早き 心地せられぬ今日の御幸は

   今はとて涙ぬぐひて見おくれば 大御車ぞ遠ざかりゆく

と口ずさんだ。
 帰宅してから、一晩ほとんど眠ることもできなかった十四日早朝、まだ布団から出てもいないころ、新聞の号外があわただしく昨夜の乃木大将夫妻の自刃を報じた。取るものも取り合えず読んでみると、

   うつし世を神去りましゝ大君のみとしたひて吾はゆくなり

という辞世が載せてあったので、まぎれもなく殉死であることがわかったものの、いわゆる晴天の霹靂の思いがけない出来事であった。私は茫然自失し、ほとんど言うべき言葉が見つからなかった。
 その後新聞紙上に発表された諸大家の感想は後日のように一定したものではなく、東京朝日新聞などは、「大将の行為は、常軌を逸したる者なれば、武人の道徳は別として、一般の道徳に於て、其人に同情するの余り、一概に之を賞讃して、後世を誤る可らず」という一説を載せていた。
  一方、万朝報の黒岩周六氏は、乃木大将を楠木正成公に比して、「楠公も大将も、ともに死なんとして死したもので、その死は生よりも貴く、遺烈を千載に留めたり」と論じ、その結末には、

   今まではすぐれし人と思ひしに 人とうまれし神にぞありける

という一首を付け加えてあった。
 大将の殉死についての所見は、日本人のあいだですら以上のようにまちまちだったのだから、西洋諸国の人々では、かりにおざなりに賞讃する人があったとしても、彼らの道徳観念においてこの事件を理解することができなかったのはまったく無理もないことだった。
 ロンドン・タイムズの東洋部長であったチロール氏(注・Valentine Chirol 18521929)が大将殉死の翌日にタイムズに寄せた一文には、「私は乃木大将とその夫人の最期について、東西の思想上に深いみぞがあるのを発見し、古い記憶を思い出さざるを得ない。十五年前、ロンドン駐在のシナ公使の羅豊禄が、シナ人としてはまれに見る欧化主義者でありながら、彼が不治の病にかかった時、シナの医師に呪文を唱えさせて、祈祷のための灰を五体に振りかけさせたのを見て、私は東洋人の心理を理解することができなかったが、今回のことも同様である」という一節があった。この見解は、ただチロール氏だけでなく、欧米人ならばきっと同じように持つものだろう。(注・瞥見では、日本在住の親日家の記者ブリンクリーが「古風な武士道精神の復興」とタイムズ916日号に書いた)
 このようなわけで、九月十四日の早朝に、乃木大将の思いがけない殉死の報を耳にした一般国民は、驚くやら戸惑うやらで、このことに対しての決定的な観念を持つまでには、いろいろと思いを巡らしたようだった。なかには、最初にこの報を聞いた時には、あまりに過激な行為なので、これが欧米各国に伝わったらどのような反応になって現れるだろうかという不安を抱いた者もあったようだ。

 また大将は旅順で二児を戦死の犠牲で失い、今では学習院在学中の三人の皇子とともに華族の子弟を預かり教育の任に当たっているという大切な立場の人間である。当然のごとく、余生を国家に尽くすべきはずなのに、その生を捨てて死を選んだのははなはだ遺憾であるという意見もあったようだ。
 また一方では、この行動によって日本国民がいかに忠君の一義において熱狂的であるかということを各国の人が知り、彼らを心底震えあがらせ、彼らは今後日本人に畏敬の気持ちを持つようになるだろうと見る者もあった。
 さて私はある日、犬養毅氏と話しているときこの話題になった。同氏の説は次のようなものであった。(注・わかりやすい表現にあらためた)
 「余は西南戦争のとき、新聞通信班として九州に出張し、乃木大将と知り合い、詩作を見せ合ったこともある。大将が、かの軍旗をなくしてしまったという苦戦の状況についても余はよく知っているが、あれはやむを得ない出来事だった。わずか百人ばかりの小倉兵が、賊軍の主力軍に遭遇して、旗手も戦死し、旗を奪われてしまったのだ。これは大将の責任として、それほどには重大なことではなかったのに、謹厳な大将のことで、ずっと気ににしていたようだ。そして、今回の殉死は、乃木大将だから意義のあることで、もちろん他人が真似するべきことではない。坂井虎山が、赤穂四十七士を詠じた詩に、
    
     
若使無茲事
     臣節何以立
     若常有茲事
     終将無王法
     王法不可廃
     臣節不可巳 
     茫々天地古今間
     茲事独許赤城士

(注・この詩は、「臣節」「王法」とはなんであるかを赤穂浪士は示したとして、作者は評価している)

とあるが、この最後の句の赤城士を乃木将軍とすれば、この詩が今回の大将の行為に対する適評になるだろう」
と言われた。私は犬養説が、大将の殉死に対する決定案(原文「鉄案」)として、動かしがたいものだと信じる。


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