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百六十五 井上角五郎氏と初桜歌集(下巻62頁)

 人間には偶然とは思えないほど不思議な巡り合わせがある。
 私が明治三十一(1898)年に麹町区一番町五十五番地に住居を定めた(原文「卜居(ぼっきょ)した」)時には、南隣りに米倉一平氏が住んでいたが、その後何年かたって、慶應義塾の同級生だった井上角五郎氏が引っ越してきて門を並べて住まうことになった。
 私が井上氏と慶應義塾に在学したのは明治十四(1881)年から十五年までの一年間で、氏は私の親友の渡邊治とともにクラスの中の二駿足(注・ふたりの秀才)だった。
 十五年に私は、渡邊とともに卒業して時事新報の記者になり、井上氏は一時、福澤家の家庭教師になっていたが、ほどなく朝鮮に出張し、朴泳孝、金玉均らとともに京城の政治舞台で活躍した。同時に、時事新報の通信員としても明治二十一(1888)年ごろまで大いに手腕をふるった。
 その後、氏は衆議院議員になり、最後には北海道炭鉱会社社長まで出世したが、私の隣家に越してきたのは、おそらく同社の社長時代だったと思う。
 井上氏といえば、口さがない京童(注・噂好きな人のことをさす)が、蟹甲将軍、などと言いはやしたほどで、鉄骨銅心の木強漢(注・無骨で一徹な人)かと思いきや、明晰な頭脳の持ち主である。いつのまにか和歌を吟詠し、自作の百首を集めて「初桜」という題名の歌集を作ったから、と言って、大正元(1912)年八月、私に一本寄贈してくれた。そして、同じ月の二十八日には、わが紅蓮軒にやってきて、その歌集を出版した由来について話された。

 「僕は一昨年、ある結婚披露宴の席で、高木兼寛氏とともに祝賀の席上演説をしたが、井上通泰氏が同席のある人に、井上の演説は自然と歌になっている、もしその一部を取って三十一文字に綴ったら、全部歌になるだろうと言っていたと聞いた。その後、目の治療のために同氏を訪問したついでに、このことを確かめたところ、いかにもそのとおりだと答えられたうえに、さかんに入門をすすめられた。また、御歌所の遠山英一氏を師にして学ぶのがいいだろうといって、その後遠山氏を紹介されたので、昨年の四月十日から詠歌を始めて、今日までに、およそ百六十首を詠んだ。そこで、この中から百首を選んで、今年の議員選挙のときこれを出版し選挙区民に配った次第である。歌はまず遠山氏が加筆し、さらに井上氏の意見をきき、両氏の熱心な指導によって、あの「初桜」の出版に至った。このほど井上氏を訪問したところ、先帝の崩御について氏が詠み出た十首の歌を示された。そして、この歌を見たままの感じを歌にせよ、と言われたので、次の一首を即吟した。すると氏は、そのままで申し分ないと非常に称賛してくれた。それは次の歌である。

   月見るも虫の音聞くも此秋は ただあはれをぞますばかりなる
 

 井上氏の談話は以上のようなものだった。私は井上氏が帰ったあとに、すぐに初桜集をひもといて一気にこれを読み終えた。井上、遠山両人の添削が少しばかり親切すぎたようで、どれもが歌人の調子になっていて率直な井上氏の面目が現れていないような気もしたが、そのなかに、

    福澤先生の嘗て(注・かつて)給ひし消息文を見て
   いくたびも読まんとしてはためらへぬ 落つる涙にぬれもするかと

の一首などは、問題が問題だけに、作者の真情をうかがうことができるものだった。
 そこで私は「初桜歌集を読みて」と題して所見を述べた一文をしたため、末尾に次のような腰折(注・自分の歌を謙遜して言う表現)を添えて、井上氏の一粲を博した(注・いっさんをはくした。お笑い種にしてもらった)。

   まなびやに机ならべし友と又 門をならべて住むが嬉しさ

   思ひきや門を並べて住む友の またの言の葉の友ならんとは

   言の葉の道に匂へる初ざくら 奥ある花のさかりまたるる

 もともと井上氏が朝鮮入りしたのは、福澤先生が西洋文明を日本に移入して人民の叡智を開発しようとした運動と同じことを、朝鮮にも広げ、半島人民の利益を増進しようとする使命を帯びたものだった。
 前後数年間にわたって井上氏が試みた数々の事業の中で、もっともめざましかったのは、明治十九(1886)年一月に発行した漢城周報に、漢文と、朝鮮のハングル(原文「諺文(おんもん)」)を混合した文体を使用したことだろう。
 朝鮮には、むかしから、漢文、諺文(注・ハングル)、吏文(注・朝鮮の外交文書の文体)の三種類があったが、そのままでは読みにくく、また使いにくかった。新聞用の文として広く民衆に普及させるにはこれまで非常に不便だったので、漢文とハングルを結びつけて、日本の、漢文かなまじり文と同じような文体を工夫して、その文法書までも作成したので、この文体は、それ以降朝鮮で一般にも流行し、政府の法令でも使用するようになったそうだ。
 福澤先生も、生前にその話をきいて、たいそう喜ばれたそうで、このことは井上氏の功績として長く半島の文化史に残るべきものであろう。


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