百六十四 明治天皇御宸翰(下)(下巻59頁)
(注・163「明治天皇御宸翰(上)からの続き)
藤波言忠子爵は明治天皇陛下の御学友として御側近くに奉仕し、引き続き宮内省の要職を歴任されたから、陛下の御行実についてはもっともよく知るひとりで数々の思い出話がある。そのなかには次のようなものもあった。(旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)
「明治天皇陛下の御在世中、重臣大官より、しばしば御詠の御下賜を願い出たこともあったが、さる場合にはただうち笑ませらるるのみで、かつて御筆を執り給わず、先年高輪なる後藤象二郎(原文「象次郎」)伯邸の御臨幸のとき、庭前の池殿に御着席あり、月に対して、夜更くるまで御機嫌斜めならざりしかば(注・ごきげんよろしかったので)、後藤伯は何か御染筆を願わんとて、自分にも御執奏を依頼せられたから、侍座の人々ともども御勧め申し上げたが、ただうち笑ませらるるのみ、御当座(注・歌会の題に即席で作った歌)もすでに御出来になっていたようだが、ついに御筆を執らせられなかった。自分は今や御記(注・「明治天皇紀」)編纂の事にあずかっているから、なるべく御遺蹟を探究して拝見もし撮影もする考えであるが、小松宮彰仁親王家には、御直筆の会津攻めの感状を下し給わったということであり、また有栖川家にも何か御宸筆があるだろうと拝察すれば、追って参殿して、その実否を伺い定めんと思って居る。」
聞くところによると、山県有朋公爵は、明治天皇陛下の御宸翰を得ようとして、その機会を待ち望んでいたが、御生前にはそれを果たすことができなかったので、崩御後に御学問所を整理したときに、諸官省からの奏請(注・天子に願い出ること)書類のの状袋(注・封筒)の裏に御製(注・ぎょせい。天皇が作った詩歌)を書かれた草稿があったということを聞き、せめてそれでも拝領したいと皇后陛下【のちの昭憲皇太后】に願い出た。
皇后陛下は、さらに思し召すところがあったようで、山県がそれほどまでに熱望するというなら、毎年の勅題の御短冊の中から一枚を分け与えようと仰せられたそうだ。しかし山県公爵は、勅題御製の全部が揃っている中から一枚を拝領するのはあまりに畏れ多いことだとして、結局拝辞したそうである。よって、天皇陛下から臣下に給わった宸翰は、前条に記した藤波子爵のもの以外はおそらく皆無であろうと思う。
また子爵の談話の中には次のような一節もあった。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)
「明治の初年、自分は陛下に供奉して東京に出てきたが、陛下はそのころなお御髪を垂れて緋の袴を御着遊ばされた。しかるに同五年九月、九州御巡幸を機として、はじめて西洋服を御着用あり、大西郷(注・西郷隆盛)の注意で、実際軍隊を御統率遊ばさるべく、御教育申し上げんとて、あるとき習志野の原に御臨幸を仰ぎ、天幕の中に御露営を請いたる折しも、大雨降り来たって、御座所に雨漏りの懸念さえあったので、大西郷は例の率直な態度で、天幕の幕間より御座所を覗き込み、「いかがでごあります」と御機嫌を伺いたるなどの奇談もあった。またそのころは、陛下御教育のため、宮中に侍補という者を置き、土方久元、吉井友実、佐々木高行らが一等侍補、元田(注・永孚ながざね)、高崎(注・正風)、米田(注・虎雄)、鍋島(注・直彬)の諸氏が二等侍補で、もっぱら匡補(注・きょうほ。非を正し、及ばないところを補う)の任に当たられたが、中にも佐々木侯は真摯剛直の人であるから、奏上の事を御採用なき間は、断じて御前を退かぬというありさまで、まことに古忠臣に恥じざるのおもむきがあった。しかるに侍補の権力があまりに増大してきたので、内閣においても大いに考慮するところあり、ついにこれを廃するに至ったが、その後副島種臣、加藤弘之、西周、西村茂樹、本居豊穎(注・とよかい)らの和漢洋の諸学者が、陛下の左右に参候して侍講侍読を怠らず、あるとき西周が西洋諸国演説のことを奏上して、御前において演説の仕方を演じたるなどの奇談もあった。これら名臣賢士の啓発は、叡聖文武なる陛下の御天性と相まって、古今に冠絶する御盛業を樹てさせ給うに至ったのである。」
(注・侍補の人員については、以下が正しい。元田永孚の提議によって西南戦争後の行財政改革の一環として発足した。一等侍補は徳大寺実則(宮内卿兼務)、吉井友実、土方久元、二等侍補は元田永孚(侍講兼務)、高崎正風、三等侍補は米田虎雄、鍋島直彬、山口正定の計8人が任じられ、11月に建野郷三が三等侍補、翌明治11年(1878年)3月には佐々木高行が一等侍補に追加され全部で10人となった。)
私が、藤波子爵から以上の明治天皇の御宸翰、御事蹟に関する談話を聴聞した飯倉藤波邸の客間は和洋折衷で、床の右端に高く明治天皇の御肖像を掲げてあった、その御肖像は毎度拝見するお姿と違い、正面から竜顔(注・天皇の顔)を写されたもので、おそらくは御晩年の尊影であろうと思われる。鬚髯(注・しゅぜん。あごひげと頬ひげ)豊かで、御威厳がますます崇高に拝されたので子爵に尋ねてみると、この御肖像は自分が特に写生させて、何度かの修正を加えて自分がよいと思うまでに仕上げたものなので、世間に類例がない唯一の御尊影であるということであった。
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