百六十二 明治大帝の御性行(下巻52頁)
明治大帝陛下の崩御から御大葬までは、新聞の記事は言うに及ばず、人が二人、三人寄ると触わるとこの話で持ち切りになったものだ。しかし時がたてばこの話も消え失せてしまい語り継ぐ者もいなくなってしまうと思うので、当時私が耳にした二、三の興味深い話を書き留めておくことにしよう。(注・以下、旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらため、一部の漢字をひらがなにした)
子爵、石黒忠悳氏の談話。
「大帝陛下が日清戦役中、広島の行在所(注・あんざいしょ。天皇の外出時の仮宮)に在せしとき、十畳敷きの二室にて軍務を聞き召され、隣室が御寝室となっていて、あまりに端近く外間の物音が騒々しいので、事務官らが心配のあまり、あるとき御座所と離隔するため、新たに板塀を造って置いたところ、陛下はこれを御覧【みそなわ】して、元のままにて苦しからねば、塀は取り払ったが宜いとの御沙汰であったから、事務官は仰せ畏みて、早速その塀を取り払ったが、由なきことをしでかして、なんとも申し訳なき次第なりと、恐懼措くところを知らざりしに、その夕刻、何方よりか献上の鮎を、供御の余りなりとて、この塀を造りたる事務官に賜わりければ、事務官は案に相違して、はじめて安堵の思いをなしたりという。これを伝え聞いた人々は、陛下の大御心の隅々までも行きわたらせられて、臣下に対する思いやりの深きに、感泣せざる者はなかった。」
御歌所の大口鯛二氏から直接きいた話。
「陛下は宮中において、一度定めたること、一度用いたるものは、すべてこれを変更することを好ませられず、たとえば御膳部にても、時候のものは毎年先例どおりにして、さらに新しきものを差加うるを許さず、また宮中の御召使は、本人より願い出づるのほか、一切罷免の御沙汰がなかったが、陛下が政務上必要のほか、容易に宮城を出でさせられなかったのも、また皆、この変更を好ませられぬ御性格によるものであろう。しかして唯一の御楽しみは、和歌を詠じ給うことで、この最も多き時は、一日に百六十首にのぼりたることあり、あるとき宮内大臣田中光顕伯が、御歌所に来たりて、陛下よりその日御下付になった御製を拝見せしに、やはり百首以上に達していたので、かつて聞き及びたるとおりなりとて、大いに驚かれたことがあった。かく御多作のため、高崎御歌所長も即座に拝覧することあたわず、時経て遅れ馳せに拝見の分を差し出すものが多かった。そのころ御製六万首にのぼりたりといい、のちまた、七万首にのぼりたりと聞き居たるに、今度ある新聞には、九万首の多きにのぼれりと記したるものあり、事実如何は知られざれとも、とにかく日本開闢以来、一人にしてかくのごとき多数の和歌を詠み出でられた事例なく、御歴代においても、天皇歌を詠じ給えば、皇后に御詠なく、皇后和歌を嗜ませ給えば、天皇に御製なきが多く、明治大帝のごとく、皇后陛下とともに国風に御堪能なりしは、実に前代未聞である云々」
また、ある宮内官の話。
「大帝陛下の御晩年、ある者より熱帯地方の果物マンゴスチンを献上せしに、陛下はその形を愛でさせられ、中味をえぐり抜きて、外部を陰干とし、やがて固く干しあがりたるところを、漆にて塗りつぶし、みごとに蒔絵して刻みたばこ入れを作らせられ、のち、これを侍臣に賜ったことがあった。ところでその後、前例にならい、大きな西瓜をえぐり抜きて、陰干となさんとて、御学問所のひさし先に吊るし置かれしに、おりからの霖雨にて、その西瓜が腐敗せしものと見え、陛下が縁先を御運動の時、御沓の響きにて、その西瓜が地上に落ち、めちゃめちゃに砕け散ったのを、御覧になった陛下は、平常あまり笑い声などを発し給わぬのに、このときばかりはカラカラと笑わせられ、幾回も思い出しては、笑い止め給わざりとなり。」
御歌所長高崎正風男爵から直接きいた話だという、ある人の話。
「明治十年ごろ、自分は岩倉右大臣に申し出でて、明治大帝御教導のため、夜話ということを始め、副島(注・種臣)、吉井(注・友実)、土方(注・久元)その他、時の老臣を御前にして、夜話の会を催すこととした。その因由【いわれ】は、人には五倫(注・「孟子」の守るべき五つの道としての、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の親)あれども、天皇陛下だけは四倫なりというのは、陛下には朋友というものがないからである。ところで今やその欠陥を補うがため、陛下の御前に老臣を集め、畏れながら友達同士のごとき気持ちをもって、夜話会を始めた次第であるが、陛下が御座に着かせらるるや、いずれもその御威光に打たれて、老臣共もなんとなく打ち解けることができないので、つい一、二回で中止してしまった。そのとき岩倉右大臣は高崎男に向かって、君は非常に心配するようだが、陛下は大器晩成の御性質で、やがて必ず御名君とならせらるるから、永い眼で見ておられよと言われたそうで、高崎男はその後岩倉公のこのひとことを想い起こして、公の眼識の非凡なるを感嘆しておられたという。」
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