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百五十九 女流常磐津(下巻41頁)(注・原文では「常盤津」となっているが、ここでは以下「常磐津」に統一する)

 明治末期以降の東京の花柳界において各種の音曲芸能がいちばん発達した場所は、誰がなんと言おうと新橋である。
 新橋には芸人の頭数が多く、またやってくる客層がよいだけでなく、そこで指導的立場にいる人たちが芸道を奨励することが土地の繁昌の良策であるとして、最近ではその機関として演舞場(注・新橋演舞場)を設立するなど、各種の施設が、比較的よその土地よりも完備しているのである。清元、常磐津、長唄などのすぐれた女流芸人が揃っている(原文「顔揃い」)という点で、新橋は東京一、つまり日本一だと言わなくてはなるまい。
 新橋に清元を発展させたのは、前項(注・139「清元師匠お若」を参照のこと)でも述べたように、清元お若の力だった。それに対し常磐津を今日のように盛んにさせたのは、老妓、お粂の熱心な努力によるところが多いということだ。
 もちろん、お粂ひとりの努力だけではなく、先代の常磐津文字兵衛が、長年、親切に稽古をつけ、今の文字兵衛もそれを熱心に継続し続けたことが、年がたつごとに大きく報いられたということは言うまでもないことであろう。
 それより以前は、新橋の女流芸人では清元が一番の粒ぞろいで、常磐津よりもずっと上を行っていた。木挽町の田中家を会場としていた若葉会は、東京の紳士連中を聴衆に毎月一回の演奏会を催していた。
 これは、お若仕込みの節回しで、聴衆の人気は長く続き、会を重ねること二百回以上になったというだけで、このときの隆盛をうかがうことができる。
 しかし、大正十二(1923)年の地震火災で田中家が焼失してしまったあと、ほどなく同家は再興したにもかかわらず、あとに続く者が出てこなかったために、若葉会もいつの間にか解散してしまった。

   また、お若も病気がちで稽古を辞めることになってしまい、清元はだんだんと衰えを見せるようになった。
 それと反対に常磐津の勢いが大きくなり、例のお粂の努力がそろそろ効果を現わし始め、長年押されぎみだった清元に対抗しようとする一致協力の努力も加わり、唄には今栄、小助、駒代、綾治など、三味線には小春、若龍、稲奴など、いずれも女流芸人として一騎当千の面々が、それぞれの特長もって陣頭に立つようになった。
 築地新喜楽を会場に毎月一回開催する常盤会は、いまでは百数十回を重ね、常磐津全盛の観を見せるようになった。
 その常磐津連中は、先輩が後輩のことをよく引き立て、さかんに流派の発達につとめているから続々と後継者も現れてくるのではないかと思う。
 しかし今の花柳界の風潮は、時代の流行の影響で、茶屋、料理屋にダンス場を新設するところさえもある状況である。指導者がよほどしっかりと決心して一致団結して流派を守っていかなければ、大きな濁流に押し流されてせっかくの女流芸術もあとが続かなくなるかもしれない。
 私は、今の女流常磐津の先輩たちが、お粂姐さんらの遺志をしっかり継いで、せっかく新橋に成長した江戸伝来の芸術の花を衰えさせることがないよう一層努力することを切に希望している。

  

日本の女優(下巻43ページ)


 日本には昔、阿国(原文「お国」=おくに)歌舞伎といって、女優もいたのである。しかし徳川時代を通じて東西の劇場には、いわゆる女形の男優が跋扈(注・ばっこ。のさばること)し女優の役目を占領した。

 瀬川菊之丞だの、岩井半四郎だの、最近では中村歌右衛門、尾上梅幸などという名優を輩出したためか、今日に至るまで西洋諸国のような女優の発達が見られないのは非常に遺憾なことである。
 ただ明治中期には、市川九女八という女優がいた。川越の郷士である横田彦八の娘で、弘化元(1845)年に神田豊島町に生まれた。生まれつき踊りが好きで、六、七歳のときから坂東三枝八の弟子になり、のちには岩井半四郎に入門して岩井九女八(注・粂八)と名乗った。
 また市川団十郎の芸風を学び、しまいにはその門弟にもなり市川升之助(注・升之丞か?)と名乗っていたこともある。いわゆる「団洲張り」の勧進帳を演じ、一時は女団洲と呼ばれるに至った。(注・団洲とは団十郎の号)
 私も何度か、彼女の山姥、鷺娘、保名などを見物したが、男女の役をどちらもこなし、なにをやってもうまかった。
 六、七歳から七十歳まで、ずっと舞台の人であり続けたが、大正二(1913)年七月に浅草みくに座で保名と山姥を毎日三回ずつ繰り返していたときに、ついには舞台の上で力尽きたということで、これなども明治の演劇界における女優第一人者たるを示している。
 なお彼女の下には演技力抜群の女優がおおぜいいたが、なかでも米花(注・べいか。岩井米花)というのは、男役をやるときに驚くような技量を示した。九女八や米花は、長い間、神田の三崎座でかなりの一座を形成していた。しかしその後は彼女らに匹敵するような女優が出なかった。
 明治末から大正にかけては松井須磨子が、やや将来のある女優と思われて、カルメンやカチューシャなどの翻訳もので独特の気迫あふれる芸風を見せていたものの、惜しいことに若死にしてしまい、その熟欄期を見ることができなかった。(注・カチューシャとは、トルストイ原作「復活」の主人公名。劇中歌「カチューシャの唄」が大流行する)
 また明治の末期に帝国劇場が建設されると、そこで何人かの女優を養成した。その第一期生の中には多少の頭角をあらわした者もあったが、際だった異彩を放つような者をついぞ見受けることがないのはなぜであろうか。それは、日本の劇場には、今でもなお男性の女形が跋扈しているので、それを蹴落とすほどの女優が出現する余地がないからなのだろうか。
 私が生きている間には、日本にはサラ・ベルナールもエレン・テリーも、見ることはできないのかと思うと、まことに残念でならない。女流芸術家たちには、ここで奮起してもらい、あまり遠くない未来に世界的な大女優の二人や三人は出て、わが国の劇場を飾ってほしいものだと思うので、ここにその希望だけでも述べておくことにしよう。


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